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カレーミュージアム閉館

横浜市の関内駅近くにカレーミュージアムというフードアミューズメントパークがあるのはご存知だと思います。新横浜にラーメン博物館という全国のラーメンを集めた施設がありますが、カレミュとはそれのカレー版で、日本全国にある有名なカレー店舗を集めた施設です。

横浜の観光名所のひとつとしてこれまで数多くの来客を誇ったこのカレーミュージアムですが、今月末つまり本日付をもって残念ながら閉館となってしまうようです。

もう長い間行っていなかったこのカレーミュージアムですが、閉館の情報を聞き、今月は何度か足を運んでみました。

まずは先週、大学生活板のとあるスレでカレーミュージアムオフが催され、それに参加してきました。オフ会らしいオフ会に参加するのは久々のことです。

参加者は私を含め8人という大人数。中にははるばる埼玉や千葉からやってこられた方もおられました。

閉館まであと一週間だというのに、どの店舗もそれほど混雑はしておらず、並ばずにすんなりと入れました。

こういっては何ですが、カレー一杯1000円~は正直高いかもしれませんね。

そして、昨日もまた今度は一人で行ってきました。

28日から30日までは全店カレー半額のイヴェントを実施していて、一、二杯食べて帰ろうかと思い、図書館で勉強した帰り夜9時頃に立ち寄ってみたら、どの店舗も大行列で、待ち時間30分だと言われたので諦めて帰りました。

これまでほとんど行かなかったカレーミュージアムですが、なくなってしまうと聞くと少しだけ寂しさを感じてしまいます。

それでも、また今度跡地に新しい施設を作るということなので、今はそれに期待してみようと思っています。

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新学期を迎えるにあたっての決意

今日は珍しく午前中(10時頃)に起きました。

春休みになると、どうしても生活リズムが崩れてしまい、早寝早起きを心がけなければならないと分かっていながらも、気付いたら朝方寝て昼過ぎに起きるというまさにニートそのものの堕落した生活パターンになってしまいます。

そんなわけで、春休みになってからは午前中に目が覚めた記憶がほとんどありません。

夜型生活は様々な面で不利益を被ります。

まず第一に、一日が短く感じてしまう。やはり一日は朝があって昼を挟んで夜が来るというのが正常な一日の経過なわけですから、昼過ぎに起きて「朝」が欠けてしまうと何だか一日を損してしまったような気分になります。特に今などは日も割りと短いため、場合によっては、起きてる間に太陽が出ている時間がわずか数時間しかないという例さえあります。日が沈み始める時間帯になると、いくら理性の部分ではまだまだ時間があると思っていても、本能の部分では一日が終わり始めていることを感じてしまうため、時間を無駄にしてしまったような感覚にとらわれてしまいます。

次に、一度崩れた生活リズムはなかなか元に戻すのが難しく、大学が始まってからも支障が生じかねないことです。休みの期間だけでなく、普段から生活が乱れ気味で、寝過ごして午前中の授業に出席できなかった失敗が過去に何度もあります。それで、出席点などを失い単位を落としてしまったりといった不利益を被った経験も何度もあります。

今年度は全出席するぐらいの覚悟で臨まなくては大変なことになりそうなので、何とか生活リズムを改善して、朝形生活を習慣化していきたいところです。この課題を何にもまして優先していった方がよさそうだと今は考えています。仮に夜中何か勉強したり本を読みたくなったとしても、最低でも深夜2時までにはすべての作業を切り上げて電気を消して布団に入るようにしたいです。朝型生活ができるようになれば人生が根本的に変わるような気がする、これは私を含め今現在昼夜逆転生活を送っている多くの方が感じている正直な感想ではないでしょうか。

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粗にして野だが卑ではない

作家の城山三郎氏が今週亡くなられました。

城山三郎氏と言えば、言うまでもなく伝記や経済小説を多数残した文筆界の巨匠の一人です。恥ずかしながら私はこれまで一冊も氏の作品を読んだことがなく、今回の訃報に接し、色々と調べてみて初めて代表作や経歴などについて知ることができました。

上の言葉も今回の件で知ったのですが、氏の作品のタイトル(『粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯』)となった言葉だということです。気になったので調べてみると、これは元国鉄総裁であった石田氏が自身の生涯を語るときに実際に口にした言葉なのだそうです。

「粗にして野だが卑ではない」この言葉を見たとき、思わず私はハッとさせられてしまいました。私が前々から漠然とながら思い抱いていた理想的な姿の一面がそこにあると思ったからです。

この逆の行き方をする人間も世の中には数多くいます。つまり一見すると上品で洗練されているようだが実際は卑怯な人間…。どれだけ見栄えがよかったとしても、そんな人間は本物とは言えないでしょう。

例えば、相手によって態度を変えるような人間―強い人間に媚びへつらい、弱い人間に高圧的になる―などは卑な人間の典型だと言えるでしょう。しかし、これは見ようによっては、動物の本能的な姿だとも言え、加えて人間の精神的な弱さを考えれば、このような動物的な態度に陥ってしまう危険性は万人にあると言えそうです。彼らの卑しい態度は、自分にそのような傾向がないかを見るための、まさに他山の石であります。

反対に、たとえ少しばかり「粗いして野」であっても、卑怯な振る舞いがない人間は本物だと言えるのではないでしょうか。

アメリカ人は卑怯な振る舞いを最も嫌うと聞きます。そして、我が日本国でもかつてはそのような美徳が通用しておりました。それが最近では、失われつつあるように感じるのは気のせいでしょうか。人間としての美しく正しい生き方を考えるためにも、この機会に城山三郎氏の作品をいくつか読んでみようと思っています。

氏の冥福を心からお祈りします。

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単位計算という煩わしさ

今日は高校時代の知り合いの一人に久しぶりに会ってきました。向こうは理系で研究があまりに忙しかったために、家から十分通える範囲内の大学に通っているにも関わらず、途中から大学の近くに一人暮らしを始めました。そのため、彼が実家に帰ってくる限られた時期にしか会えないため、最近は数ヵ月に一度ぐらいの頻度でしか会っていません。

今日会って色々話しをしてきたわけですが、それらの中で興味深かった話題を一つ。

それは、卒業に必要な単位計算に関する文系と理系の違いです。

大学を卒業するためには定められた単位数を取得するだけでよいのでは決してなく、その内訳つまり「単位計算」が欠かせません。教養が何単位、第二外国語はこういった組み合わせで何単位、専門もこれこれこういった枠から何単位ずつ取る…、というように細かな決まりがあり、それを満たさないと、単位数だけ満たしていても卒業できません。勘違いなどにより、この単位計算を間違えて留年の憂き目を見る大学生はまれにいると聞きます。

これは私が所属している学部、つまりは文系学部での話であるわけですが、これまでずっと理系でもそうなのだろうと思っていました。

しかし、今日話してみて、意外にもそうではないと知らされ軽いカルチャーショックを受けました。彼の説明によると、理系はほぼすべての授業が必修であり、授業選択の余地がほぼ皆無なので、単位の数え間違えはほとんど発生しない。大学にもよるだろうが、彼が通う大学では第二外国語すら選択の一つで特に制限はなかった、ということでした。

考えてみれば確かにその通りで、理系はほとんどの授業が必修という扱いなので、自分で煩わしい単位計算を行い、卒業時に、それが間違っていないかどうかで不安に陥る余地があまりないわけです。高校までの授業と同じで、与えられた科目を無難にこなしていれば単位計算の心配がなく卒業できるわけです。

そう考えれば理系が羨ましく…、はなりませんね(汗。単位を取るのは理系の方がはるかに難しいし、留年もしやすくなります。決められた講義を受けなければならないというのは、退屈な講義、単位が恐ろしく取りにくい講義なども甘んじて受講しなければならないことを意味します。単位計算が面倒でも、少なくとも私は文系のままで十分だ。そう思いました。

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チキンラーメンに施されたとある工夫

コロンブスの卵などという言葉がございます。これは、どんな簡単に見えることでも最初にするのは難しい、最初に思いつくのは難しいという意味の格言です。世の中には、ちょっとした知恵によって、大きな成功を収める例というものがあるようです。

日清のチキンラーメンと言えば、説明するまでもなく日本を代表する世界初のインスタントラーメンであります。開発されたのは1958年。日本国が高度成長を遂げる前の頃の話であり、テレビなどはまだ白黒の状態でありました。このチキンラーメンは発売されるやいなや爆発的なヒットを記録し、日本中にインスタントラーメンブームをもたらしたという記録が残っています。ブームというものは一端火がついたとしても、徐々に衰えていくものが大半なのが世の中の常でありますが、どうやらこの商品に限ってはその例外だったようで、そのことはスーパーなどに行き、インスタントラーメンの棚を一目見ればまさに一目瞭然だと言えます。

さて、この日清チキンラーメンですが、数年前、とある改良を施して、それが大成功を収めたのを記憶されている方もおられるでしょうか。それは何かと申しますと、「たまごスポット」と称するそれであります。固まった麺の上部に小さなくぼみを設けて、そこに卵がスッポリと収まるような工夫を施したのです。たったこれだけの工夫なわけですが、これが大いに消費者の心を掴んだようで、売り上げを大きく伸ばしたという話です。最近放送されているチキンラーメンのCMを見ていても、この「たまごスポット」の点に触れられています。

卵がどこに転がろうが、味自体には全く影響しないし、どうでもいいようにも思える。でも、見た目が汚いよりは綺麗な方がよい。真ん中に綺麗に卵が乗り、バランスのよいラーメンを見ていると、食欲の方も自然と旺盛になろうというものです。

何事もちょっとした遊び心というものが生きる上で大切であるのかもしれません。

最近少しはまっている落語の話術を真似して文章を書いてみましたw最近段々落語の本当の面白さが分かりかけてきたところです。

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『硫黄島からの手紙』

そんなタイトルの映画が公開されたのは記憶に新しいところです。

先日書店に行くと同名の書籍が新刊コーナーに並んでいるのを目にしました。最初、あの映画のノベライズ本なのかと思って著者名を見てみたら何とそこには「栗林忠道」とあります。この名前を聞けば戦史に詳しい方や例の映画を観た方なら誰でもこの方がどのような人物か思い浮かぶと思います。そうです、栗林忠道とは硫黄島で総指揮を執り名将と呼ばれた「栗林中将」のことです。

中将は、硫黄島で司令を下しながらも、折に触れて家族に愛情溢れる手紙を送り続けていて、それらのうち現存している手紙をまとめたのがこの本の内容であるようでした。数ページ立ち読みしてみて、これは買って読まなくてはならない本だと判断し、即買いしました。

帰宅してから内容に目を通してみて、まず最初に驚かされたのが著者(を含む当時硫黄島に派遣された日本軍兵士の)精神力の強さです。映画を観られた方ならご存知の通り、まさにあの戦場は地獄と呼ぶにふさわしいほどの凄惨極まるものでした。それにも関わらず、中将は決して弱音を吐きません、それだけでなく、家族の先行きを心配するほどの気遣いを示しています。自身はもう、まず生還は無理だろうという絶望的な状況下にありながら、自分よりも家族を優先させる姿勢に父としてのあるべき姿を見せられたような気がしました。

この本では収録された手紙が時系列順に並んでいるため、後半にいけばいくほど、事態は絶望的になっていきます。初めは数日に一度だけだった爆撃も徐々に回数を増し、いつしか連日、それも一日に何度も爆撃を受けるようになっていきます。そうなると、当然当事者の方々も追い込まれていくわけで、それに伴い精神状態もいよいよ悲愴感を増していくものです。

こうして本で読んだだけでは、自身死がひしひしと迫ってくる恐怖を本当に理解することはできませんが、想像力をできるだけ働かしてみて自分をそのような状況下に置いてみると、少なからず恐怖は感じます。戦争自体非常に恐ろしいものであるのに、硫黄島の戦いは生還の可能性がほぼ皆無であったわけですから、恐怖心の大きさは通常の戦闘の比ではなかったと思います。我々と同年代の若者が当時、そうした大きな恐怖を乗り越えたのだと想えば、自然と頭が下がります。

今はただ、硫黄島で斃れた多くの日本兵そしてアメリカ兵に黙祷を捧げることぐらいしかできそうにありません。

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家族の前でするラジオ

これまでのラジオを聴いてくださった方はご存知だと思いますが、私は実家暮らしでリビングの共用パソコンからしかネットにつなげない環境にあるので、ラジオは大体家族が周りにいる中でやることになります。

そのことを話すと、意外な反応を示されるのが通常なようです。「恥ずかしくはないのか?」や「自分には絶対にそれはできない」などという言葉をこれまで何度も目にしました。

しかし、これまで何度も家族の前でラジオをやってきた私から言わせると、「別になんていうことはない」というのがその答えになりうると思います。確かに、初めは恥ずかしいかもしれません。いえ、実際恥ずかしいもので、私も初ラジオを家族の前でやったときは初めほとんど声が出せませんでした。ですが、それも初めのうちだけです。話し慣れてきて、30分も経ったぐらいの頃から段々家族に対する気恥ずかしさが消えていき、徐々に自分のペースで話せるようになってきました。一時間も経つ頃には極めて自然体で話せるようになっていました。

私だけではなくおそらく誰でも似たようなものではないかと思います。ラジオをすると思うから恥ずかしさを感じてしまうわけで、発想を変えて、電話をかけていると思えばよいのではないでしょうか。誰しも家族の前で電話で長話をした経験はあるものです。それと同じ要領でラジオ放送に臨めば、きっとそこまで家族の目は気にならなくなるでしょう。

ただ欠点を挙げるなら、家族の前なので、話せる話題や単語が限られてくるという点です。下ネタや卑猥な単語などは私一人のときなら読み上げたり自分から話したりもできますが、流石に家族がいる前でそれはできません。特にそちら系の話題が好きな人は、家族の前でのラジオは避けた方がよさそうです。

でもそうでなければ、「慣れ」次第でいくらでもラジオ放送を楽しむことができます。実家暮らしの方も一度家族の前で放送してみれば何かはじけることもあるのではないでしょうか。そのときは、家族に事前に「ラジオをするから今から一人で喋る」という旨は伝えておいた方がよいと思います。そうすれば家族からのあらぬ疑いも受けないですむでしょうから…。

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『日本の星之助』

『日本の星之助』という本を読まれた方はいらっしゃるでしょうか。

この作品はあの著名な作家大仏次郎さんの子供向けに書かれた作品で、発表されたのは戦前のはずです。戦後は昭和60年頃に「国書刊行会」という出版社から復刊されたようで、私はそれを古本屋で見つけ、昔の作品が好きな私は迷うことなく購入しました。

購入したのはもう数年前で、その時にも一度読んだわけですが、一昨日本棚に並んでいるのを見ているとなぜかその本が気になってしまい、何となく手にとって本を開いてみると、数ページ読んだらまた本棚にしまうつもりがすっかり作品にひきこまれてしまい、結局気付いたら最後まで読み通していました。

話の筋は、勇敢な少年星之助が、海賊によって囚われの身となってしまった父親を、仲間と協力しながら助け出しにいくという冒険小説です。

ストーリー自体はありがちな冒険小説かもしれませんが、それなのになぜ私がこの作品に魅せられてしまったのかというと、ここでは以下の二点を挙げたいと思います。

①模範的文章

著名な作家が書かれただけあって、その文章は非常に秀逸です。俗な表現や汚い言葉などはほぼ皆無で、国語の教科書に載っていてもおかしくないような模範的な文章で綴られています。評価のまだ定まっていないような最近の作品を国語教科書に載せるぐらいなら、こういう作品をこそ教科書に載せるべきだと私は固く信じます。

②随所に散りばめられた警句・金言

読んでいると所々にハッとさせられるような言葉に出会えます。例えば、今も覚えているのが、途中立花先生という頼もしい侍が仲間になるのですが、その立花先生の言葉でこんなのがありました。「男はどんなときでもうろたえてはいけない。うろたえると普段持っている力の半分も発揮できない。どんな状況でも冷静でいられるように常日頃から鍛えておくべきだ。」これは戦前の教育のプラスの部分が反映された発言であるように感じます。別の表現で言えば、武士道的精神(という名のキリスト教的精神)に基づいて作品が書かれており、そこに私は大きな共感を覚えずにはいられないのです。

 

戦前生まれの人間の作家による子供向けの作品は傑作揃いです。ここで挙げた大仏次郎さんはもちろん他にも江戸川乱歩さん横溝正史さん南洋一郎さんなどが『少年倶楽部』などに多くの傑作を発表され、それらの多くが後に復刊され今も読むことができます(時代が時代だけにほとんど絶版となっていますが)。古本屋でもたまに見かけますし、図書館に行けば置いてあるでしょうから、興味のある方は是非読んでみてほしいと思います。

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旧ドラえもん映画DVD廃盤の噂を耳にして

「気にかかるのは上の方で書かれている旧映画DVD廃盤に関する情報です。これが本当だとしたらまさに悪貨が良貨を駆逐するの好例だと思います。我々は今急いで旧作映画DVDを集めればよいわけですが、将来の子供が昔の完成度の高いドラえもんを観られなくなると思うと不憫でなりません。せめて、廉価版か何かで目立たない形でもいいので旧作はこの先も残していって欲しいと切望します。 」

これはドラえもん映画に関するコメントです。最近ネットを調べていて知ったのですが、旧作のリメイク版を制作していくにつれて、旧作の方のDVDは徐々に廃盤にしていってしまうという話を聞きました。これが本当であれば今のうちに急いで旧作のDVDを集めておかなければなりません。これまでは、多くの作品をレンタルで観ていたのですが、そのうち買えなくなってしまうかもしれないとあっては少々無理をしてでも集めなければ後々悔いを残してしまうでしょう。

それにしても、原作はもちろん脚本・声優・音楽とすべてにおいて極めて完成度の高い旧ドラえもん映画を廃盤にしてしまうとは何ともショッキングな情報です。将来の子供のためにも、せめてどんな形でもよいので、旧作を観られるような環境を整えておいて欲しいと私は心から思います。

リメイク版が登場すると旧作の方は消えていってしまうのが運命というものなのかもしれません。しかし、それは決して新しい方が優れているということを意味するわけではないでしょう。もしかしたら、技術的には拙かったとしても、旧作の方が様々な面ではるかに新作を凌駕しているという例だってあるのです。今のドラえもんがそうだと言うつもりはありません。私はただ、将来の子供に旧作と新作を見比べてみるチャンスを残してあげてほしいと願うだけです。

旧作廃盤にはこの先多くの反対の声が上がるでしょう。そのときは旧ドラえもんを愛する私も優れた(と私は考える)文化を後世に残すために一声あげなければならないと考えています。

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絶望の中に光を

人間生きていれば、よいことも起これば悪いことも起こる。それは誰にも避けられない。しかし、その起こった現実に対してどう対処するかについては自分の力によって如何ともなる。わずかな挫折に大きく傷つき朽ち果ててしまう人もいれば、どんな困難にもくじけず、七転び八起きの人生を歩む人間もいる。後者のような人間は、人生における苦難を苦難とも思わないタイプの人間だ。他人の目から見ての「苦難」によってその人は大きな成長を遂げる。苦難が彼を成長させる原動力になるのだろう。

後者のような人間に私はなりたい。どのような逆境に置かれたとしても、その中にわずかでも残っている希望を見つけ、それに向かって邁進できる人間でありたい。逆境に落ち込むことなく、それを試練だと捉え、果敢に立ち向かっていけるようになれば本物だ。

上を見ても人生下を見ても人生。どちらだろうがこの先同じ時間が流れていく。それならば、上を向いて生きていこう。希望の光を常に胸に光り輝かせ世を歩もう。「意志あるところに道は開ける」。

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大学で何をやってきたのか

この質問は就活面接において定番中の定番の質問だと言えます。どこの企業を受けてもこの質問だけは必ず聞かれるものだと考えていても間違いはなさそうです。

この質問は、リア充であれば、答えるべき内容はそれこそ無数に発見できる―ゼミ、サークル、友達関係など―ので問題はないのでしょう。それらの中からその場で最もアピール力の強いと思われる話題を選び面接に臨めば無理なく内定を獲得できるのかもしれません。

しかし、非リア充にとっては、この質問に正直に答えるとするならば、少々残酷な結果が待ち受けていそうです。確かに非リア充とは言っても、誰でも何かしらの活動に熱中した経験はあるものです。例えば、私のように読書や2chでのコテ活動など。ですが、これらは面接の際にはあまり使えそうにないようにも思われています。読書はまだ少しは興味を持ってくれるかもしれませんが、後者のコテ活動などは口が裂けても試験官の前でアピールすることはできません。(そう考えると、コテ活動など現実社会においては何のメリットももたらさないわけで悲しいものです)。

非リア充は、面接の際にアピールすべき経験があまりにも欠如しているような気がしてなりません。企業によっては、コミュ能力の有無を確認する一環として恋愛経験の有無をたずねる場合すらあると聞きます(しかしこの質問はセクハラなどの問題も絡んでくるんでそのうちどこの企業でもされなくなるでしょうが)。

そういった希望の少ない現実の中で何を足掛かりにして非リア充は面接に立ち向かっていけばよいのでしょうか?

一つ考えられる手段は「嘘」を多用することです。面接官は就活生一人一人の生活を詳しく知っているわけではないのですから、嘘をついたとしてもその嘘が完全に見破られることはありません。例えば、サークル経験がないにも関わらずサークルに所属していたように偽るとか…。ですが、ほとんどの人間はそれほど上手く嘘がつけるものではありませんし、大きすぎる嘘は相手に胡散くささを与えてしまうだけです。

それよりはやはり正直に、実際に自分が体験した話をする方が印象がよくなるのではないでしょうか。何か、これまでの生活の中で経験してきた事柄の中から、何かよい側面を見出してそれをアピールすればそれで最低限のラインは保たれるはずだと私は思います。読書なら、「毎日図書館にひきこもって本を読んでいた」などと言えば印象は悪いですが、「世の中の仕組みを知るために毎日本を読み思索を積んできた」などと言えば面接官は感心してくれるかもしれません。物事は一つ表現を変えるだけで、それを受け取る側の印象は大きく変わるものです。アピール力にならないように思えるネットでの活動だって、「日々ネット上の掲示板で自分の意見を書き込んだり、人の意見を聞いたりで大きな刺激を受けた」とでも言えば、それほど悪い印象は受けないような気がします。

非リア充は非リア充なりに、物事のよい面を素直にアピールしていくのが最善の道です。そうすれば、リア充大学生と並んだとしても、それほど遜色のない評価が下されるかもしれません…。

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某予備校で見た某会計事務所の求人

「資格:特になし

スキル:コミュニケーション能力があること

 

 

 

就活オワタ\(^o^)/

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日本社会は新卒社会らしいので

二つか三つほど面接でも受けに行ってみようかと思っているところです。

将来税理士の資格を取って独立するためには最低でも二年か三年ほどの実務経験が必要になります。資格浪人になり数年後に全科目合格したとしてもその後いきなり独立することはできず、どこかの事務所に所属するなり企業の経理課にでも就職し実務経験を積まなければなりません。(仮に制度上実務経験がなくとも独立できるとしても一部の天才的な能力の持ち主以外は何の経験もない状態から本などで読んだ知識だけで事務所を構え経営していくことはできないでしょうが)

そういう事情があるため、もしも働きながらであっても資格試験に受かりそうなのであれば、そうした方が将来のためにははるかに安泰だと言えます。働けば働くほど仕事の感覚がつかめるようになってくるでしょうし、私はそれほど早く独立しようとは考えていない(三十代~)ため、一年に一科目ずつ、時間をかけて資格を取得するのも選択肢としてはありえます。

ただ不安なのは、働きながらの受験で勉強時間がきちんと確保できるのだろうかという心配です。毎日午後5時にはきっちりと仕事が終わるような職場であればよいのですが、そんな職場は少なそうです。下手をすると試験勉強だけで時間を奪われてしまい、自分の自由な時間がほとんど持てなくなってしまうかもしれません。社会人になっても読書やネットなどの趣味にも時間を割けるようにしたいと思う私にはそれは心配な点です。

就職しないで資格浪人という選択もあります。こちらに関して私が気になるのは、資格に失敗してしまったときは絶望的でしょうが、資格を取得さえすれば、この新卒社会の中であっても、会計事務所や経理課で雇ってくれるのだろうかということです。いくら資格を取れたとしてもどこも雇ってくれなくては何の意味もありません。この辺の事情は会計や資格系の板で調べてみた方がよさそうな気がしました。

何れにしても、将来の選択肢を増やすためにも、経験を増やすためにも就職活動は試しに挑戦してみたいと思います。

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