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大自然の恵み

生活の中でちょっとした幸せを感じる瞬間、それは100%果物ジュースを飲んでいるとき。そんな小さなことの中に満足感を感じています。

特に夏場長い距離を歩き喉が渇いたところに飲むジュースの味は格別。

そんなとき頭に思い浮かぶのは「大自然の恵み」というあのありがちな言葉であって、畑の中で豊かに実を結んでいる果実―ぶどう、りんご、バナナ、…etc―の姿です。

それなのに悲しむべきは、お店で400~500mlぐらいのペットボトルに入った100%果物ジュースをあまり見かけないこと。また置いてある場合でも緑茶類とは違ってそれほど安くなっていないこと。

まあポンジュースみたいに値段少々張るのは全然構わないのでもっと色々ペットボトルで100%ジュース出して欲しいですね。

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生きよ、堕ちよ

中学生時代読まされた坂口安吾『堕落論』の言葉がなぜか胸に染みるわたくしです。

本というものは、それまでの人生経験やその時々の置かれた状況などにより読んで得るものは変わってくるものです。恋愛を経験したことのない人間よりは経験豊富な人間の方がより深く恋愛小説を味わえるに違いないし、戦争経験のある人間はそうでない人間と比べてより深く戦記を読むことができるでしょう。

中学生時代私がこの『堕落論』を読んだとき、自分はただひたすら決められたレールの上をそれほど疑問も抱かずに歩いていただけであり(軽い挫折はあったにしても)本当の堕落とは無縁でありました。それゆえ、私は実感を持ってこの本を読めはしませんでしたし、読んで得たものといえばせいぜいテストの点数が悪かったときに友達同士で「坂口安吾も「堕ちよ」って言ってたしまあいいか(笑)」と冗談を言い合うぐらいのものでした。敗戦という絶望的な環境もなければ、個人的に窮地に立たされた境遇とも無縁であった私にはこの本を理解するための条件がまだまだ欠けていたのかもしれません。

しかし、どうも今は様子が違っていそうです。同級生は次々と就職し社会に飛び出していき、ある人は昇進し、またある人は結婚し、人生の地歩を固めていく中で自分自身を眺めれば、とっくのとうに仲間の船とははぐれてしまい、嵐の中を耐えながら必死に目的地を目指して航海を続ける帆船のような有様です。社会から取り残され、絶望にも似た状況にある今の私にこそこの本は何かを力強く語りかけてくれそうな気がしてなりません。早速明日にでも購入し読んでみようと思っています。

夜が闇によって支配されるからこそ、朝の光は我々に限りない喜びをもたらしてくれる。それと同じように、悲しみ、絶望、苦難なども単独で見ればありがたくないものかもしれないが、それを乗り越えたところにきっと歓喜の光が輝くのだろう。その光を見るために、今日も私は、あの険しい山々、そしてあの荒れ狂う大洋と果てしもない冒険を続けるのである。希望の杖を片手に持ちながら。

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テストを終えて将来を見据える

昨日後期のテストが全て終わりました。最後のテストを受け、教室を出た瞬間、何だかこれまでの大学生活の(空白の)思い出がふいに甦ってきてぼっちなりに感慨深いものがありました。この校舎も食堂も購買部も、そして学友も(と言いながら卒業できればよかったのですが)これにて一応お別れです(下手をすると単位が足りない可能性もありますが、それでももう来年度は週一程度で大学に通えば済むようになるわけでやっと「四年生」らしくなると言うこともできます)。そう思うと、大して何か思い出に残るような出来事があったわけではないこのキャンパスに対して別れの挨拶をしないではいられませんでした。キャンパス内で飼われているあの猫たちとももうお別れです。帰り道、ちょうど彼らが階段のところにいたので、頭の中でさよならを言ってから大学を立ち去りました。

こうして大学卒業を控えてみて驚いたのは、ほんの少しではあるものの、得たいの知れない「虚脱感」のようなものに襲われてしまったことです。これで全てが終わったのかという安心感に続いて私を襲ったこの感覚は前にも一度味わったことがありました。それは、大学の合格発表があり掲示板で自分の合格を確かめたあの瞬間の直後に襲ってきました。大学入試のときと今で共通しているのは、ともに将来の夢が明確になっていないまま、目の前にあるとりあえずの目標をクリアしてしまったという点です。一つの目標を達成した結果私は生きる目的を一瞬であるとはいえ見失ってしまったのです。定年を迎えた会社人間が人生に対して寂しさを感じてしまうというよく言われるあの感覚の何十分の一かを私自身も味わってしまったような気がしました。

大学を卒業した後はそのまま企業に就職される方とは違い、未だに将来が定まっていない私は、例えるならば、あるかどうか分からない島を目指して大航海を続ける船乗りのようなものであり、常に激しい不安と心配の中を生き抜いていかなければなりません。無謀にも大海原へと乗り出し、決して後戻りの許されない航海を続ける私の行く末に待っているものは果たして光明かそれとも絶望か。どのような道に進むにしても、私が指針とすべきは、映画『アルゴノーツ』の中で、黄金の羊毛を手にした残酷な王ぺリアスに向かってアルゴー探検隊隊長イアーソンが言い放った次の言葉であります。

「運命は自分自身の行動で掴み取っていくものだ。」

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非リア充のグルメ⑤

そんなわけで以上述べてきたお店の中で入りやすさ度を自分なりに並べていくと

牛丼屋>ラーメン屋>マック>カフェ>パスタなどのB級グルメ店>焼肉屋>居酒屋>バー

といった序列になるでしょう。B級グルメ店までは何も気にせず入れますが、それ以上になると入るにしても少し勇気が要求されます。

しかし、私ももう年齢的には社会人になっていてもおかしくない歳なわけで、これからはこれまで敷居が高いと思って敬遠していたお店にも果敢に挑戦していきたいとも考えているわけです。「大人の階段」を一歩一歩昇っていくためにも、大人に相応しい行動様式を見につけていかなければなりません。

そして、その第一歩として、来週辺り、一人で回転寿司でも食べにいってみようと思っています。

(そんなことより早く就職しろというもっともなご指摘はご勘弁を)

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非リア充のグルメ④

マック系のファーストフードは牛丼屋系とは違ってグループで店に行き長居する客が過半数ですので、その分一人だと行きづらくなってしまうかもしれません。しかし、それでも料金前払い制のファーストフードは店員に気を使う必要もないし、しばしば一人用の席も用意されていたりで気軽に入りやすい。敷居の低さで言えば牛丼屋系飲食店の次ぐらいの入りやすさではないかと思います。ただマックなどは、場所によっては地元中高生のたまり場となってしまっていて、年齢的な面でいづらくなるというケースがたまにあります。

最後にバーは、(アイリッシュパブみたいなところだと特に)基本誰かと楽しくおしゃべりをするために行くお店だと思うし、なかなか一人で入る気は起こりません。私自身もまだ一度も一人では行ったことがありません。外国の方なんかはバーで隣に座った方に話しかけてすぐに打ち解けてしまうイメージがありますが、ああいう社交性は羨ましいですね。日本人にはなかなか真似できないところ。でも、日本のバーは別に社交の場でも何でもないわけで、その意味でも一人で行くのは抵抗を覚えます。

(続く)

いよいよテストが始まってしまいました。どのような結果に終わるにせよ、ベストを尽くして来年に繋がるようにしていきたい。

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非リア充のグルメ③

焼肉屋は居酒屋に比べると純粋に料理の味を楽しみに行くお店であって一人で入ってもそれほど違和感はありません。私はまだ一人で行ったことはありませんが、焼肉屋で周りをチラッと見たときにはたまーに一人で来ているお客が目に入ってきました。

カフェは一人で入るのに抵抗がある人のほうが少ないぐらいではないでしょうか(特に男性は)。昔ながらの席までオーダーを取りにきてくれるような喫茶店ならいざ知らず、先に注文して商品を受け取ってから席につく形式のチェーンのカフェ店はマックなどのファーストフードと同じぐらいの難易度しかないように思います。私は当然のようにカフェには一人で行きますし、最初に一人で行ったときもそれほど気まずさを感じることはありませんでした。

カレーやパスタなどのB級グルメ店はお店の雰囲気によって大きく変わってきます。料理の種類によってはお客の大半が女性であったりするからです。ここでは客の男性比率が4割以上はあるだろうB級グルメ店についての話をします。B級グルメ店は高級な料理屋とは違って、優雅に会話を楽しみながら料理を食べなければならないというわけでもなければ、息苦しくなるような過剰な(と自分のような人間には思われる)サービスとも無縁であって、一人でもすんなりと入れるものです。入るときにしばしば聞かれる「お一人様ですか?」という質問に変な被害妄想を抱いたりしなければ一人でも気分よく食事ができます。

(続く)

引き伸ばしてますが最後何の「オチ」もありはしません。世間では一般的に話題には「オチ」がなければ場が冷めてしまいがちなのだそうです。私のような非リア充にとっては「オチ」のある話題どころか普通の話題ですら長引かせるのが困難だと言うのに。世間が求める人間関係力のレベルと自分のそれとの乖離をあたらめて思い知らされ失望感に囚われずにはいられません。

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