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飛べない鳥はただのニート

2chのような大型掲示板においては毎日数多の言葉が飛び交っていて、それらの大半は何でもない言葉として読んだ次の瞬間には頭から消え去ってしまうものです。しかし、中には考えさせられるような言葉や気になるような言葉もあり、そうした言葉に出会えたときの感動や嬉しさがあるからこそなかなかこの掲示板から離れられないというのもあるかもしれません。

もう何ヶ月も前に見た言葉で、未だに頭の片隅に残っているものがあります。それは、浪人生の方が書かれていたレスで、浪人するにあたって親から次のような言葉をかけられたというのです。「いくら浪人生であっても平日は朝早く起き、そんなに遅くなる前に外出して自習室なりに行っていなければならない。同級生の中には働いている人もいるのだから。」

こうした発言は、「周りの人間がそうだから~」という極めて典型的な日本人の発想だと批判される方もいるでしょう。しかし、子供の教育という面から見ると、こういうアドバイスは非常に効果的なものであると私は考えます。特に、ニートや不登校が社会問題となっている昨今を考えると、子供をそうした立場に追いやらないためにはこうした教育は歓迎されるべきだと言えます。

それはそうと、この些細なレスが未だに私の頭の片隅に残っているのは、私自身の現状に対しても上記の発言が鋭い批判として突き刺さったからかもしれません。学部時代に留年したのもあり、私のかつての同級生が次々と就職し、社会に巣立っていく中で、私は陸に取り残され、しかも、昼夜逆転生活がなかなか改善されなかったりと、飛び立つための訓練もまともにできていない。そのことに多少なりとも後ろめたさを感じていたのでしょう(同じような発言は当然ながら親からも受けてはきましたが)。

院に進学し、講義への欠席や遅刻が難しくなった今、学部時代と比べると生活リズムは少しは改善されてきていると言えます。平均して9時頃遅くても午前中には毎日目が覚めるようになり、まだまだ不十分ながら希望は見えてきています。以前と比べて遥かに目覚めがよくなり、目覚ましをかければ、何とかその時間には起きられるようにもなってきました。昨日などは12時前に寝てみたところ何と6時過ぎには目が覚めてしまいました。でも、社会人として働いている同級生にとってはそんな生活は当たり前すぎること。すでに働いている多くの同級生のことを考えても、怠惰な生活を送るわけにはいかないと自戒を繰り返す日々です。きちんと毎日朝早く起き、その日一日の多くの時間を、仕事をしないかわりに読書や勉強など文化的な作業に充てていかなければならないと痛切に感じています。

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外見評価で見落とされやすい要素

街中で歩いているカップルらしき男女の男性サイドはその大半がフツメン上位以上であるように思えると前回書きました。それは少々誤解を招きかねない表現であったかもしれません。私がここで言う顔面評価は、生まれながらの造形面だけではなく、もっとひろく髪型や服装なども含めたものを指しています。所謂「雰囲気イケメン」とでも言いましょうか、その正体を的確に説明するのは難しいものの、何か異性を魅了するようなオーラや色気といったもの、そのような要素も男としての評価に大きく関わってくるものでしょう。

男としての色気はどのようにして生まれるか。それはおそらく、その人がどれだけ人生を楽しんで生きているかや、多くの人間と健全な関係を持っているかなどが関係してくるのでしょうが、その解答を得るのは簡単なことではないのでここではひとまず置いておき、外見評価と関わる中でもっと分かりやすい要素である服装について以下で述べてみようと思います。

私の見るところでは、服装は女性からの評価においてかなり重要な位置を占めているように思えます。なぜなら、ほとんどの女性は程度の差こそあれオシャレに多少は興味を持っているものであり、行動を一緒にする恋人に対しても当然ながら最低限のラインで身だしなみを整えることを要求するものだからです。

ここで考えなければならないのは、オシャレに対する男性と女性の捉え方の違いについてです。前述のように、女性はそれこそ誰でも服装に気を使う傾向があるのに対して、男性側は一部(その割合がどれぐらいであるかは分かりませんが)しか服装を気にかけていません。それは、街中にあるファッション店の男性向けと女性向けのお店の数の比に目を向けてみれば一目瞭然です。ファッションに全く興味のない人間にとっては、極端に言えば服装などはどうでもよく、適当にスーパーなどで選んだ服を着て済ますようになります。そして、こうした服装が女性から見ると納得のいかないものとして映ってしまうのでしょう。

ファッションに全く興味のない人間にありがちな思考法として、自分が全く服装に興味を持っていないために、相手も同じく自分の服装など気にしてはいないだろうと考える点が挙げられます。より正確に言えば、相手が自分の服装をチェックしているという発想すら浮かばないというのが本当のところかもしれません。

しかし、女性は案外男性の服装をしっかりとチェックしているものです。恋愛系の板を見ていても、主に女性が恋人の服装に不満を訴える声はそれなりにあり、我々男性はそういった観点でも異性からの評価が大きく左右されるという事実を忘れるべきではないと思います。2ch情報では、要求される服装レベルはそれこそ「最低限」であり、清潔感のある普通の格好であれば構わないという声が大勢を占めていました。なので、何も高い服を買う必要はなく、ユニクロなどでも十分相手を落胆させない格好ができるはずだと私は信じています。私自身オシャレとは程遠い人間ですが、我々男性サイドも最低限服装には気を使っていきたいものですね。

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いない歴=年齢がカップルを語る

ここ数年、「格差社会」という言葉が流行し、様々な書き手が様々な観点からそのキーワードを用いて社会を説明しようと努めてきました。それらの多くは主に経済格差に関するものでしたが、中には恋愛における格差を採り上げ興味深い論考を発表された評論家も何人かいたようでした。

恋愛格差とは簡単に言えば、主に男性の側に表れている傾向とされ、一方では恋愛経験の極めて少ない男性がいるかと思えば、他方では異性をとっかえひっかえし異性に全く不自由しない男性がいて、その二極化が著しく進行しているのではないかという意見のことです。この見解がどこまで正しいのか私には分かりません。これは一種の「モデル」でしかなく、現実を見れば、ある程度の年齢になれば多くの男性が恋愛の一つか二つは経験しているものなのかもしれません。

それでも私は、街中で見かけるカップル(手を繋ぎながら歩いていたりと明らかにお互いの「パーソナルスペース」を侵入し合っているように思える男女)を見る限りでは、「恋愛格差」という言葉を信じないではいられなくなってしまうのです。男性側の容姿を見ているとその大半が上位フツメン以上のレベルを保っているように私には思われたからです。あまり冴えないような下位フツメンや、ましてや2chでお馴染みのキモヲタAAのような男性が女性と親密に歩いている姿はめったにお目にかけないような気がするのです。

しかし、これは2chなどでもよく指摘されている内容であって、今更感を拭えないのかもしれません。ですが、重要な事実は誰が何度強調しても強調しすぎるということはないもの。ここで再度周知の事実を確認しただけであっても何らかの意味はあるだろうと私は考えます。

それとも、これは私があらかじめ知っていた上のような仮説が頭の中にあったために、その仮説を裏付けるのに都合のよい事例ばかりを無意識のうちに取捨選択してしまったのでしょうか、あるいは、その街を歩いていたカップルがたまたま容姿レベルが高かったという可能性もあります。私の意見は、何も街中のカップルを何時間にも渡ってじっくりと観察した結果得られたわけではなく、たまたま目に入ったカップルの事例をいくつか見ただけで得られたものなので、根拠が薄弱なのは否めません。それでも、私が最後に一つだけ言いたいのは、特に学生のような若いカップルで下位フツメン(この概念は髪型や服装なども含みます。次回はこのテーマについて書いてみるかもしれません)以下の男性が恋人らしき女性と歩いている姿はめったに見かけない、この点についてです。

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洋書をスラスラ読めるようになる日は来るのか…

前回挙げた二つの本は、今現在大学受験英語で最も信頼されていて、また最も売れている受験英語本です。私も高校時代にこれらを使ったおかげで、それほど得意ではなかった英語を一気に偏差値65以上に上げるのに成功しました。特に伊藤和夫氏のビジュアルは自分の中では英語のバイブル本と言ってもよく、この本があったからこそ英文が読めるようになったと言っても言いすぎではありません。余談ですがこの本は、数年前に2ch大学受験板において参考書の利用者によるその劇的効果が口コミで広がり、今では難関大学受験生が選ぶ参考書の定番として不動の地位を築いた感があります。

英語文献を読むにあたって、英文を精密、正確に読むためにも私は再度伊藤氏の名著を手に取って勉強を始めたわけです。そうしてみて分かったのは、やはりこの本は不朽の名著であるという点です。古典や優れた本というのは、読めば読むほど味が出て、数年後に読み返したときにもまた大きな発見があるような本だとよく言われますが、この本はまさにそのような類の本だと言って間違いありません。以前読んだときに漠然としか理解していなかった部分が今回読み返してみてはっきりと理解できるようになったりで、英語の構造に対する理解がさらに進んでいくのを感じています。

その伊藤氏が言われるように英語は「理屈が半分慣れが半分」なのでしょう。理屈だけでとどまっていてはダメで、英文を読むルールをある程度理解したら、次は英語の文章を次々に読み込んでいかなければなりません。そこでどのようなテキストを選ぶかですが、まずは何を置いても聖書を参考書の中の参考書として選び学習を進めていく計画です。なぜ聖書を選んだか。そこには、信仰的な理由だけではなく、実際的な理由もあるのです。それは何かと言えば、キリスト教国アメリカにおいては聖書は最も権威ある書物であり、それゆえ最も模範的な英文で書かれていると考えられるという理由です(ちなみに現在でも多くの欧米人は外国語を学ぶときにその国の聖書をテキストとして用いるのだとか)。そして次に、比較的読みやすくこれまた模範的な文章で書かれているであろう児童文学や、学者が一般人向けに書いたエッセイなどを読み、文章を英語で読むことに対する抵抗を減らしていこうと思います。継続は力なりを信じて、毎日少しずつでも英語に触れていく習慣を作っていきたいところです。

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英語の勉強法は数あれど…

そのような理由もあり、英語を本気で勉強し直さなければならないと思い知らされたわけです。

そこで、英語の勉強をどのように進めていくかが問題になってきます。書店で英語のコーナーに行くと数え切れないほどの英語本が並んでいて、様々な著者が様々な勉強法を主張しています。英語は絶対に勉強するな、というような興味深いタイトルでベストセラーになった本もありました。

そのような中で私が選んだ方法は原点回帰と呼んでもよいようなものでした。つまり大学受験英語に戻って勉強しようと決意したのです。

受験英語と言えば「訳に立たないもの」として軽蔑の対象になりがちです。曰く「英文を読めるようにはなるかもしれないが、会話は全くできるようにならない」と。この批判はかなりの程度当を得てるのは認めざるをえません。

しかし、ここで忘れてはならないのは、明治以来、諸外国の学問を採り入れるためにこそ外国語は学ばれてきたという事実です。諸外国の最先端の知識が盛り込まれた本を翻訳して日本に紹介する点に外国語学習の主眼があったわけで、英会話などはそれこそどうでもよかったのでしょう。数十年前には気軽に海外旅行などできる日本人は少数派だったし、国内でも特定の地域や職種を除けば外国人と接する機会などはほとんどなかったわけですから(まあ大半の日本人にとっては英会話だけでなく読解ですらも無縁だったでしょうが)。

そういうわけで日本の英語教育が読解中心に組み立てられてきたのは本当だと思います。そして、それが時代の要求に合わなくなってきたために「会話重視」の姿勢が推し進められるようになったのでしょう。

しかし、話が脱線してしまいました。ここで私が言いたかったのは、だから古典的な受験英語は読解力を鍛えるためにはよくできたシステムであって、それは現在の私の必要と合致しているということ。

そして、私が選んだテキストは高校時代も使っていた以下のテキストです。

伊藤和夫『ビジュアル英文解釈Ⅰ、Ⅱ』

山口俊治『英文法講義の実況中継(上)、(下)』

(続く)

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近況報告と英語の必要性

大学院での生活はまずまず順調にいっています。

学部時代にゼミに入っていなかったのもあり、ゼミ形式の授業には新鮮なものを感じましたし、少人数で受ける授業は緊張感も学部時代の比ではありません。

担当になって発表するときなどはまさに冷や汗もので最初のときなど酷いものでした。

しかし、回を重ねる度に少しはマシになってきているような気もしまして、こうしたことも慣れの要素が大きいのかもしれないと思いました。

こうしたプレゼンの能力は社会に出てからも直に役立つものであって、今のうちにできるところまで上達させておきたいと思うところですね。

ところで、院で研究生活を送るにあたって私が切実に必要性を感じたものがあります。

それは何かというと「英語力」です。「英語力」と呼ばれる力には数あれど、私が特に強調したいのは英会話分野ではなく(もちろん英会話もできるにこしたことはないし、外国人留学生や講師とコミュニケーションを行うためには有益な能力であるのは言うまでもありません)読解分野でのそれについて、つまり英語論文を英文のまま読める能力についてです。

日本は世界でも有数の翻訳大国であり、日本語だけしか知らなかったとしても、かなり多くの重要な文献を読むことができるでしょう。一例を挙げれば、図書館に行けば、世界中の名の知れた作家の全集がズラッと並んでいます。これほど世界の全集が揃っている国は稀だと誰かが書いていたのを覚えています。

そのようにして確かに日本語だけでも多くの文献が読めるのは事実ですが、しかしそれでもなお研究生活を送る上では次のような理由により、英語の必要性を感じてしまうのです。

①(当然ながら)全ての英語の文献が日本語に訳されているわけではないということ

それなりに名の知られた著者の本や、話題になった本であれば大体日本語訳は用意されているでしょう。しかしながら、マイナーな本などはそうはいきません。論文を書く際に先行研究に極力目を通して書かなければならない点を考えるとどうしても英語文献にも手を伸ばさざるをえないようなのです。それと特に私がやろうと思っている研究テーマは欧米では強い興味を持たれていても日本ではほとんど誰も興味を持たないようなテーマであるため日本語の文献を手に入れるのが大変であるという事情もあります。

②翻訳の問題

翻訳本を読んでいて何が書いてあるのがさっぱり分からなかったり、日本語の意味を理解するのに苦労する訳文に出会った経験があるのは私だけではないでしょう。あまり偉そうなことは言いたくはありませんが、翻訳にはしばしば悪訳誤訳が紛れ込んでいます。一般論で言って、原文と翻訳を比較すれば前者の方が優れているケースがほとんどでしょう(この点は私自身一家言ありますのでいつか暇なときに記事を書いてみるかもしれません)。翻訳がある文章でも、原文が読めるのならそれで読んだ方がよいという考えが私の中にあるために英語を勉強する必要性を強く感じてしまうのです。

(続く)

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大生板の失恋スレを見て思ったこと

失恋の痛みは相当なものだと経験者は語っています。それこそ、人生を狂わすほどにつらいものなのだとか。

こうした話はネット上でもリアルでもしばしば聞かされてきました。しかし、経験のない私には全くもってその「痛み」とやらが理解できないのです。なぜ、人々があれほどに失恋から大きな傷を受けるのか、そこから立ち直るのに長い時間を要するのか、それは私にとっては大きな謎であって、純粋に興味の持てるテーマでもあります。

恋愛経験や失恋経験の乏しい人間であればきっと同意してくださると思いますが、我々のような人間から見ると、世にある恋愛にまつわる悩み事は滑稽なものにしか映りません。それは別に恋愛で悩む人間を侮辱しているわけではなく、単に経験が乏しいために理解が不能だと言っているだけなのです。

私は今ちょうどドストエフスキーの『死の家の記録』を読んでいます。その中に次のような一節がありました。精神的な喪失の苦しみの大きさは肉体的な苦痛にまさる、と。失恋の痛みというものもちょうどそれにあたるのかもしれません。

人間に関する理解を深めるためにも、私も早く失恋の痛みを味わってみたいところです。

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