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喋り方から見るリア充と非リア充

女性が男性の魅力を評価するときに「声」は重要な要素だと言います。ファッションセンスや顔と並んで声の良し悪しは大きな評価対象となるようで「声フェチ」を自称する女性の数は少なくありません。例えば、よく例に挙げられるのがベジータの声で、あのように男気があり、お腹からしっかりと出された喋り方は魅力的に映るもののようです。

さて、キャンパス内を歩いているとき、私は周囲で話しをしている男性方のその声や話し方を観察してみました。そこで導きだされたことは、当たり前と言えば当たり前で何を今更という気がしないでもない以下のような答えでした。それは、一般的な傾向として「イケメンリア充の声(喋り方)は男性として魅力的である」というものです。彼らの大部分に共通する喋り方、それは、朗らかで、滑舌がよく、感情を込めた喋りとでも言いましょうか、身近にいるリア充を想像してもらえれば大体わかっていただけるかもしれません。あの喋りには、同性の私ですら魅力を感じてしまうのですから、異性から見て尚更そうであるのは間違いがありません。

それと対極にある喋り方、それは一言で言えば自(ry…と自虐に走るのはここでは控えますが、暗く、ボソボソ声で何を言っているか分からない、声に感情がこもっていない、イントネーションが明らかにおかしい、などといった特徴が挙げられるでしょう。こういった喋りは言うまでもなく、女性が最も厭うものでありましょう。

喋り方が大切だと分かっていても、それをどのように向上させていけばよいのかは一筋縄ではいかない問題です。もって生まれた声質というものもあり、発声練習のような訓練だけでは限界もあるのでしょう。しかし、それでも私は、そうした訓練に加え、人生経験を積み重ねる中でその向上が可能であると信じています。属するグループによって喋り方が違ってくるという事実は、喋りがいかに環境の影響を強く受けるものであるかを証明しているのですから。

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発声練習もかねてそろそろヒトカラでも行ってこよう。

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ブームが去った後には・・・

流行に背を向けて生きる、それは中二病チックな人間にはよく見られる態度です。しかし、それだって結局は流行というものを明確に意識した上で無理やりにそれに抵抗しようとしているわけで、流行に半ば支配された態度だと言えなくもありません。流行に無批判に流されるのも考え物ですが、流行っているというただそれだけの理由で物事を低く見ようとする姿勢はあまり誉められたものではないでしょう。私が考えるところでは、どんな流行物にも何かしら優れた点が隠されているからこそ(例えば、今プチブームの蟹工船が、ワーキングプアなど将来に希望の持てない人間が共通して抱く心情を上手く描けている、というような)多くの人に受け入れられる場合が多いように思えるのです。そして忘れてはならないのは、流行物の中には時代を超えて生き残っていくであろう数多くの作品が含まれているという点です。最近の例でいえば、指輪物語やナルニア物語といったファンタジーの古典が挙げられるでしょう。夏目漱石やディケンズ、ヘミングウェイといった文豪も、かつては人気作家であった事実を忘れてはならないと思います。

そんなわけで私も流行物だからといって全く無視するのではなく、興味のある本や映画などは手にとってみようと考えています。ただ、私の場合、興味を持つ時期が人より多少遅れます。遅れるというよりも、流行が去ってから、それに興味を持つことが多いのです。その理由は、一言で言えば本が安く買えるからという現実的な理由からです。流行の本はブームのときに沢山買われ、ブームが去ると大量に古本屋に売られるもの。ブームが去ってからブックオフなどに行けば、100円コーナーでそれらの本を見つけることができます。私は別に社会に送れずについていくために流行作品を読むわけではなく、純粋に興味を惹かれるから読むだけなので、それからでも決して遅くはないのです。

本題に入ると、『黄金の羅針盤』(ライラの冒険)上下巻ブックオフの100円コーナーで買ってきました。映画が公開されてからまだ三ヶ月も経っていないような気がしますが、こうして早くも100円コーナーに並んでしまうのは作品の本当のファンからすると悲しく感じてしまうのでしょうが、読者の立場で言えば嬉しいことこの上ありません。こうして、ときに優れた作品が中古などで手に入れやすくなるというのは流行が生む副産物の一つであるのかもしれません。

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そういえばこの前『NANA』8冊セットが240円で売ってたw

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インターンシップ説明会に参加してきました

今日は大学でインターンシップ説明会が開催されていたので興味を惹かれて参加してみました。修士一年も学部三年生と同じく参加対象学年だったのです。そう思うと、院の二年間はあまりにも短いなと感じますね。入ってすぐに就職活動を視野に入れなければならないわけですから。(ただ私の場合は今のところあまり民間就職は考えていませんが)

それはともかく、インターンシップの説明のために東京電力やJR東日本、ハウス食品といった有名企業がそれぞれ場所をとってプチ説明会を実施していました。どの企業も魅力的でどこに話を聞きに行こうか迷いましたが、とりあえずタイミングよく席のあいていたハウス食品の席に。9割以上が従業員300人未満の小さな企業である食品業界の特殊性や、その中でのハウス食品の占める位置などについて一通り話した後、インターンシップの説明に移る。募集人数が30人だということでしたが、何とそれに対して300人以上の応募があって複数回の選考によって人数を絞るという話しを聞いて驚きました。倍率10倍とあっては、これはもう就活本番とたいして違いはありません。人気企業はインターンシップに参加するだけでもなかなか至難の業だということでしょうか。

そしてその後、就職アドバイザー企業(?)の社長の講演を聞く。ここで感銘を受けた話は以下のようなものです。就職活動は大学受験と同じで徹底した対策が欠かせない。大学受験に挑戦する人は一年ぐらい前から準備をし始める。それなのに、就活をする学生はそうした対策や勉強をあらかじめ何もせずに就活に飛び込んでいって大失敗を繰り返してそこで初めて不勉強に気付く。それではいけない。なぜなら、他の就活生だって、その時期になれば同じ体験をするわけで、それから始めるのではスタートラインは同じだ。それでは相手と差をつけるのは難しい。

三年生の方は、もう今の時期から就活本を読むなりして自己分析を開始するぐらいの方がよいのかもしれません。

こうして、就活の空気を吸ってみて再度痛感したこと。自分には民間企業に入って利益を上げるようなタイプの人間ではないのかもしれない、ということ。少なくとも利益や成功にそこまで執着心が強い方ではないと自分では思っています。それよりは、多少は生きていくのに苦労があってもよいから自分の好きなことをやって生きていきたい。例えば、大学教授にはなれず、ノーベル文学賞も結局受賞できはしなかったが、一生涯を虫の観察に捧げ、『昆虫記』という偉大な精神的文化を世界に残してくれた虫の詩人アンリ・ファーブル。彼のような人生は私の理想とするところです。さて、将来の自分はどうなっていることやら。

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ヒトカラに行く理由

最近ヒトカラ含めカラオケに全く行っていません。一時期カラオケにはまっていた時期があってその頃は二週間に一度ぐらいヒトカラ行って熱唱していたものだというのに・・・。

ところで、ヒトカラという言葉をご存知でしょうか。「一人でカラオケ」の略であって、以前は2chだけで通用する略語なのかと思っていたら、割と一般社会(?)にも浸透しているのを知りました(と言っても、2ch以外のネットサイトでしばしば見かけただけなのでリアルでどれほど使われているのかは知りませんが)

ヒトカラに行く人はおそらく少数派だろうし、実際カラオケ屋で人数と時間を書く紙を見ても、一人で来ている人はあまりいません。そうした中であえてヒトカラに行く理由はどのようなものがあるのでしょうか。一つ目の理由は、純粋に歌う行為が好きだというのが挙げられるでしょう。皆で盛り上がるのが目的ではなくただ歌うのを楽しみたいだけなので一人でも構わないというタイプです。そして二つ目としては、何でも好きな曲が歌えるという点が挙げられそうです。人前では憚って歌えないようなタイプの曲であっても、一人であれば誰に気兼ねすることなく自由に好きなだけ熱唱できます。これほど気持ちのいいことはなかなかありません。これは人前で歌えないけれども好きな曲が多ければ多い人ほどあてはまるでしょう。

私がヒトカラに行くのは二つ目の理由が大きいです。私が好む曲のジャンルは非常に偏っています。具体的には、軍歌やアニソン・特撮、童謡、メロスピなどであり、Jポップは全くと言ってよいほど歌いません。こんな趣向にあっては、皆と一緒にカラオケに行っても欲求不満がたまってしまうのは当然です。少しでも空気を読むならば、自分の好きな曲はあまり歌えないのですから。それでも、高校時代の知り合いなど、ある程度関係が深ければ、アニソンでも軍歌でもネタとして歌ってもまあ通用しています(多分)。しかし、社交上の付き合いで行くとなればそうもいかず、数時間いても一曲も歌えず、「何のために自分は来たんだろう」感が満載となってしまいます。幸か不幸か、そうした付き合いは今のところほぼ皆無だということでしょうか。ですが、将来はそうはいきません。働き出したら付き合いのカラオケも増えてくるに違いありません。そうしたときに、義理で一曲ぐらいは歌わなければならない雰囲気になってしまうと選曲に苦労してしまいそうです。一か八かで軍歌を熱唱し反応を見てみるのもありかもしれませんが、それをやるとメンバーによってはドン引きされてしまうかもしれない諸刃の剣。素人にはおすすめできません。

ヒトカラ行ってアニソンオンリーで熱唱する人も、多少は付き合いのことを考えて普段全く聞かないJポップの楽曲もストックしておいた方がよいかもしれませんね。

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無駄使いはお金だけではない

昔ドラえもんを読んでいたとき、いつものように部屋でダラダラとしていたノビタ君を見かねたドラえもんが、時間の大切さを教えるために、時間の流れていく様を目で見えるようにする道具を出しながら、過ぎ去った時間は二度と戻ってこないんだと熱弁をふるう場面がありました。

私も最近になってやっと、この言葉の重みが理解できるようになってきました。歳を取れば取るほど、体感時間は短くなっていくもの。この歳になり私自身以前と比べて時間が過ぎるのが早くなってきたと感じるようになってきています。そして、あと数年もすればおそらくは社会に羽ばたいているだろうと考えるとき、今の比較的時間に余裕のある一日一日を大切にしていかなければならないと痛感させられるのです。

思えば院生活も早くも二ヶ月経過してしまいました。修論の構想を少しずつ練っていく中で、満足のいく論文を仕上がるために最低限読んでおきたい文献が多数あるのはもちろん、それ以外の分野でも読みたい本は山ほどあるし、読書以外にも色々と経験したいこともあります。

有限な時間をいかに無駄にせずに有効利用するか、それは、自己啓発系の本を読んでいても、成功者や偉人が口を揃えて強調しているところです。ドラえもんの言うように一度過ぎ去った時間は二度と戻ってはきません。

僅かなお金のために時間を無為にするような愚を私は過去何度も繰り返してきました。例えば、街にいるときに空き時間の1,2時間にカフェに入って読書でもしようか迷っていたときに、300円400円のお金を惜しんで入るのをやめ、ブラブラと適当に時間を潰してしまう、などというのがそのいい例です。1時間の価値は、機会費用云々などという用語を持ち出さなくても500円以上の価値があるのは当然でしょう。お金の無駄遣いは慎まなければなりません。しかし、時間の無駄遣いはもっと慎まなければなりません。バイトも始めたことですし、今後は極力時間の無駄使いを避けるためにも、積極的に空き時間にカフェなどを活用していきたいと考えています。

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禍転じて福となす

ご存知のように食品価格高騰が世間では深刻な問題となっています。

普段食料品を購入している主婦の方や一人暮らしの方などにとっては多くの品目で値上げによる痛手が感じられていることだろうと思います。

私は、未だに実家暮らしでめったに食料品を買うこともないため、そこまで直接的に値上げを実感させられる機会は多くありませんが、それでも外食などをしたときにはその影響を自然と感じさせられます。これまで常連となって足を運んでいたお店の多くが、こうした状況の中でやはり値上げに踏み切っているからです。

定食屋やラーメン屋などに行くと、ここ数ヶ月で全メニューの値段が平均的に50~100円ほど上がっているのに気付きます。私が食べに行くお店は大体700円以下の庶民的なお店が中心だったので、この程度の値上げでも打撃はそれなりに大きいものです。

さて、こうした世相は悉く自分にとって不利な影響を齎したようにも思えますが、現実を考えてみると必ずしもそうとばかりも言えなさそうです。と言うのも、値上げ以来の食生活を考えてみると、以前と比べて外食をする機会が明らかに減り、月単位で見ると食費に充てるお金が少なくなっているはずですから。

その顕著な例がラーメンで、以前は夕方に小腹がすいたときにもたまに食べてから帰ったりもしていましたが、今はそれもほとんどしなくなりました。自分の中でラーメンの標準価格は650円で、それを超えると食べに行くのを躊躇するようになります。700円を超えてしまうと、もうよほど好きなお店でなければリピートしようとは思わなくなってしまいます。お金のない学生にはありがちなように私も、数十円の違いが大きな行動の差を生じ―経済学的に言えば需要の価格弾力性が大きい―外食を極力控えるようになりました。

午前中で大学が終わるときなども、学食を利用する回数が増えました(厳密に言えば学食も外食に含まれますが)。そうして分かったのは、学食は各メニューが非常に安価なため、野菜やデザートをつけても500円もあれば贅沢な食事ができるということです。季節ごとに特別メニューがあったりするので、注文するメニューのマンネリ化も避けられます。味も結構気に入っているし、栄養もバランスのとれた食事が可能となります。それでいて値段は安く済むのですから一石何鳥になるか分かりません。

食料品高騰という禍のために、かえってよい結果が齎されてしまったようにも思います。外食は趣味でもあったので、残念ではありますが、これを機に外食を減らすようにし、その分のお金を書籍代などに充てていく考えです。バイトを始めてお金に余裕ができてきたのもあって、本には割と惜しみなくお金を注ぎ込むようにもなりましたからね。肉体的な栄養や贅沢もよりよく生きていくためには必要ですが、それ以上に、精神的な栄養や贅沢を大事にしていかなければならないと思う日々です。

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生活リズムに改善の兆しが…

学部と院の授業の大きな違いとは何でしょうか。その最も顕著なものの一つに歴然とした受講人数の差が挙げられます。学部の授業では、受講人数が100人を超えるのも日常の光景であり、一部の珍しい講義を除けば、10人を下回ることはめったにありません。

しかし、院の授業では少人数なのが普通であり、学部とは逆に10人を超える授業はほとんどありません。こうした授業形態の日々を送るようになってから私にとっては嬉しいとある生活の変化が生まれました。それは何かと言えば、(以前も少し書いたかもしれませんが)授業のおかげもありちゃんと朝起きられるようになったことです。

学部の授業であれば大人数であるために、遅刻をしてもそれほど目立たないし(あまり誉められた話ではありませんが)、自主休講してしまっても出席を取っていなければ成績や先生からの評価に影響はほとんど出ないと言えます。

ですが院ではそうはいきません。少人数の小さな教室で開かれる講義で遅刻してしまえばあまりにも目立ちすぎて恥ずかしいし、欠席してしまえばすぐに先生に分かってしまいます。受講人数が極度に少ない授業だと下手に休むと周りにも迷惑を及ぼしてしまいかねません。

そうしたわけで、昨年までは午前の授業の出席率が非常に悪かった私が進学して以来は(たまに遅刻はしてしまうものの)適度の緊張感が保てているのもあり、目覚ましでしっかり起きられるようになったし、二度寝もほとんどしなくなりました。つまりは生活リズムがやっと昼夜逆転から常人のそれに徐々に近づいてきました(笑)

昨年末から土日にバイトを始めたのも生活習慣を改善する上で有効に働いているような気もします。これまでは休日になると昼過ぎまで熟睡し、そこでまた生活リズムが大幅に崩れてしまったりしていたのが、バイトのおかげで朝起きられるようになりましたから。

社会人として働いている方は平日は毎日7時頃には起きて会社に行く生活を送っているのでしょう。それを思えば、自分の生活はまだまだ自堕落なものであると反省せざるをえない状態です。何もない日でも毎日7時前には起き、その日一日を充実したものにしていくために今後より一層努めていかなければなりませんね。

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