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メタルスライムに挑むLv1の非リア

子供は言葉を覚える天才だとよく言われます。親の転勤などで海外に連れていかれた子供がすぐに現地の言葉を覚えてしまい親を驚かせるというのは珍しい現象ではありません。それはもちろん、プラトンも言うように何事であっても物事をすぐに習得できるのは若者のときだけであるからなのでしょうし、羞恥心が少ない分果敢に異質な集団の中に溶け込んでいけるという子供らしい性質があるからなのでしょう。社会も子供が相手であれば最初「赤ん坊」のような状態であっても手取り足取り言葉を教えてくれるでしょうが、大人が相手ではそんな親切な対応をしてくれるはずがありません。

英語を使いこなせるようになるためには教科書で文法や語法を勉強するよりも現地に行って「自然に」覚えてしまった方が早いという意見をしばしば聞かされます。これはある場合には正しく、他の場合には間違っていると言えそうです。つまり、前述の子供のような例で言えば、脳科学的な見地から言っても、そうしたやり方が最も合理的であるのに違いありませんが、ある程度以上の年齢になってしまえば、やはりそれだけでは不十分であって、それなりの知識を仕入れることが外国でのコミュニケーションの前提になってきます。

年齢が上がるにつれて、周りから求められるレベルは上がっていくものです。子供のうちは「これは僕のジュースだよ」ぐらいの簡単な言葉が口にできれば十分であっても、大人であればより知的レベルの高い話題が求められてきます。ドラクエでたとえれば、子供の会話レベルがスライムであるとしたら、大人のそれはメタルスライムだと言えるでしょう。レベル1の状態ではスライムは何とか倒せてもメタルスライムには一撃で倒されてしまいます。

そしてこのことは、外国語の習得だけではなく、コミュニケーションの習得についても言えそうです。子供から大人になるにつれて、求められる対人関係のレベルは飛躍的に挙がっていきます。子供はまだ経験不足ゆえの甘えが許されても、大人にはそれが許されず、年齢相応の対応をとるように要求され、それができなければ厳しい社会的な制裁が待ち受けています。

私はもちろんここで、コミュニケーション能力に極度に欠けた「非リア充」を念頭に置いてこの文章を書いています。彼ら(その中には私も含まれます)にとっての今の社会との関係はちょうど、アメリカに突然放り込まれた英語の全くできない日本人と似ているように思えてなりません。彼らがアメリカ社会に馴染むのが難しいであろうのと同様に、我々も今の社会に馴染んでいくのが難しい。周りの同年代の人たちは、着実に「敵」を倒し、レベルを上げ分相応の敵と戦っているのに対して、我々は相手にする敵のレベルは彼らと同じであるのに、レベルの方はそれに全く足らないため敵を倒せず経験値がたまらないのです。

ただ私が思うに、現実の場合はドラクエの世界とは違い、たとえ敵を倒せなかったとしても、それに立ち向かっていくだけでも経験値はたまっていくものなので、その僅かながらの経験値をあてにして、何とかレベル上げをしていかなければなりません。どんな弱いキャラであってもゲーム世界では必ずレベルが上がっていくように、現実世界であっても必ずレベルは上がっていくものだと私は信じていますから…。

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以前渡部昇一氏が30過ぎてから夏目漱石を読んだと書きましたが漱石ではなく芥川龍之介の間違いでした。漱石は大学3,4年頃に分かるようになって読んだのだそうです。訂正させてください、すみません。

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夏はユニクロ冬は…

この休みの間にアウトレットに行き、セレクトショップとして有名な某店でトレンチコートを購入しました。定価は2万6千円ほどのが一万にまで値下がりしていて、普段ユニクロ中心のコーディネートで済ませている自分としてはかなり悩んだ末思い切って買ってしまいました。これで後期着ていく服がなくて引き篭もらなくてもよくなりました。

最近のユニクロのデザイン面でのレベルの高さはしばしば指摘を受けるところです(大学生活板などで)。それは本当だと思うし、私も今年の夏は僅かの例外を除いて、ほぼユニクロのポロシャツだけで過ごしたといっても言いすぎではありません。ユニクロと言えば定番すぎて街中でかぶるのが当たり前だとされていた時代もありました。しかしそれも過去のものとなりつつあります。今では実に多種多様なアイテムが用意されています。例えば、ポロシャツだけで言っても、今年の夏はおそらく50種類以上は揃っていたでしょう。私も今年の夏は一度もかぶりはしませんでした。

しかし、それも夏服に限った話です。それ以外の季節では、そこまで多くの種類は揃っていないので、ユニクロだけで済ませるのは難しくなってきます。特に冬用コートなどは、定番中の定番のシンプルなコートだけしかないため、少し無理をしてでもブランド物のコートを、安くなるのを待ったり、今回のようにアウトレットで買うようにしています。ブランド物は定価では原則買わない主義です。なので、BLなどは一度も買ったことがありません。

ところで私には、冬用コートなどを買うときに一つ深刻な問題があります。それは、身長が165しかないために、Mサイズであっても袖が長すぎてしまうということです。セレクトショップなどでは基本Mサイズからしか置いていない(今回買った服もMサイズです)し、Sサイズが稀にあったとしても、肩幅が合わなかったりで断念するのが普通です。身長の低さに対してそれほどコンプレックスは抱いていないものの、服を選ぶときだけは日本人男子の平均身長を下回っていることに無念さを感じてしまいます。袖を折って着るのはあまり格好のいいものではありませんからね…。

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(私信)ミクシィで数日前マイミク申請してくださった方承認してあります。

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学び続けることについて

ここで度々紹介している渡部昇一氏の『知的生活の方法』を今やっと読み返し始めたところです。二章で「本を繰り返し読むことの大切さ」で、何回何十回も繰り返しの読書に耐えうる書物こそがその人にとっての古典となるという指摘がありましたが、この本も自分にとっての古典となり、今後も一年に一度は読み返していくのだろうと予想しています。

優れた本は読むたびに新しい発見や感動があるものです。今回読んでいて、大きな衝撃を受けた箇所は、勉強は目先の利益を目指してではなく知的好奇心を満たすのを目的としてなされるべきであるという主張が記されたところでした。

氏は、戦中派世代であって、戦時中は今の中学生ぐらいの年齢でありました。そしてその頃の子供達の夢と言えば士官学校に入り立派な軍人になることであり、氏の周りの秀才達もその道を目指して必死に勉強していたのだそうです。ところが、敗戦によってその道が絶たれてしまった瞬間から、その同級生達は将来の目標を失ってしまい全く勉強しなくなってしまったと言うのです。つまり彼らにとっての勉強とはただ試験を通過して富や名誉を手に入れるための手段にしか過ぎず、何か強い熱意や好奇心があって勉強をしていたわけではなかったということなのでしょう。

これに類する話は、今の日本を見渡しても随所に見出せるのではないでしょうか。例えば、大学受験のために毎日身を削りながら勉強しておきながら、いざ大学に入ってしまえば、これまで頑張った「ご褒美」だと言わんばかりに遊びまわる。これなどは手段として、目先の利益を得るためだけの勉強の典型例だとは言えないでしょうか。本来は大学は学問をしに行く場であるはずなのに、入るまでは一生懸命勉強し入ってからは勉強を止めてしまう、これほどの本末転倒はありません。

大学生の本離れが叫ばれるようになってから久しいですが、比較的暇な学生が本を読まなくなったのが本当であれば、忙しい社会人はそれよりももっと状況は悪いのではないでしょうか(多忙の身である社会人生活を何も知らない私が社会人の生活を批評するのは非常に気が引けますが)。渡部氏が書かれている「昔から日本人は学校を出ると本を読まないが、それに反して外国人はガリ勉はあまりしないが、大人になっても本を読みつづける、といわれてきたものである」という文章は何のために勉強をするのかという根本のところを再考するきっかけを与えてくれます。何かの試験の合格や昇進のための実用的な勉強だって生活の一面として確かに重要であるかもしれません。しかし、そういった目先の利益のためだけに勉強するのではなく、私はソクラテスが学問をする意義について述べたあの不滅の格言―「哲学(学問)とはいかによく生きるかを学ぶためにある」―を胸に一生涯に渡って「役にも立たない勉強」をも続けていきたいと思ってやまないのです。

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先週土曜は大生大規模オフに参加してきました。バーを貸し切ってのパーティーという非リアにとっては一生に一度あるかないかのリア充体験でいい思い出になりました。大生板forever

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雨降って地固まり…

( ´_ゝ`)ノボンジュール♪

ココログにいつからか新しい機能が加わり、選ぶだけで顔文字を表示できるようになりました。これまでデフォルト顔文字と言えば(^-^)のようなのが中心で2ch発祥のは敬遠されてきたところがあったように思えます。しかし最近はブーンやショボーンのように有名になりすぎて非ねらーでもそれらを用いるようになり、昔ほどは2ch発というだけで嫌われることは少なくなっているように思います。ココログでも(・A・)イクナイやm9(^Д^)プギャーなど2ch発の顔文字が多数用意されていて嬉しい限りです。冒頭の顔文字もそのうちの一つです。そうしたわけで今後は顔文字使用頻度がやや上がるかもしれません。

そして2chと言えば非常に喜ばしいニュースがありました。それが何か、ご存知の方もおられるでしょう。我らが大生板復活のニュースです。大学生活板は、もう半年以上前になるでしょうか、運営と衝突し彼らの怒りを買ってしまい、報復としてスレ保持数240ほど、強制名無し、等等といった惨めな状況のまま放置され続けてきました。板が元に戻るのはいつになるのか、住人達は僅かな期待を抱きながらも、もう昔の大生板は帰ってこないのかもしれないという諦めの気持ちも持ちながら板を利用してきました。

その停滞したムードの板に動きがあったのは八日のことです。突如として板のスレ保持数が100にまで減らされ、さらにひらがなでの書き込みしかできなくなってしまったのです。いよいよ大学生活板の終わりが来たかと私は覚悟を決め、他板への移住を本格的に考えながら私はその日眠りについたのでした。そして次の日夕方だったか携帯から板チェックをしてみて心底驚かされました。もしかしたら消滅しているかもしれないと思っていた大生板の様子が違う、どうやら大生板が元に戻ったらしいというニュースが板中を駆け巡っていたからです。まさかと思いながらも私は試しにコテをつけてスレに書き込んでみました。すると何とコテ名が表示されたのです!スレ一覧を見ると、昔よく目にしていたパートスレが続々と立っています。スレ保持数も700いくつという以前の水準に戻りました。

我ら非リア大学生の希望の星大学生活板が帰ってきた。我々はどんなにこの瞬間の訪れを待ち望んでいたことでしょうか。長い間冬に支配されクリスマスが決して訪れなかったナルニア国に春が訪れたように、冬に閉ざされ続けていた大生板にも春がやってきたのです。この慶事をともに祝福しようではありませんか。

「NO 大生板 NO キャンパスライフ」

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むしろ大生板こそ我がキャンパスライフ。

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ボロボロになった『知的生活の方法』発見

高校時代に読んで感動し、このブログでも何度か紹介した渡部昇一氏の名著『知的生活の方法』、紹介しているうちに懐かしさが込み上げてきて、また読み返したいと思いながらも、本棚のどこに置いたか思い出せず、古本屋で見つけたら新たに購入しようと思っていたところ、ついに本棚に長い間眠っていたカバーのないボロボロのを見つけました。あまり記憶に残っていませんが、おそらく購入した時点でカバーはなく、ワゴンセールで100円だかもっと安い値段で買ったものだったように思います。初版が出てから三年ほどしか経っていない、私が生まれる前に出た版で、ブックオフであれば確実に買取を拒否されてしまいそうな状態の本です。

しかし、本の価値は表紙ではなく本文によって判断されるべきもの。どれだけ状態が悪かろうと、内容が優れていれば、プライスレスな価値があろうというものです。ブックオフでは、本の査定を行うとき内容とは関係なくその状態のみに着目すると堂々と言い放っています。このやり方は、本来は難しい古本の値段の判断を素人でも簡単にできるようにしたという点では優れているし、それだからこそこれほどまでに店舗を拡大し大きな成功を収められたのでしょう。ですがそれはあくまで経営上の利点からそうしているだけで、本の真の価値はどこにあるのかを忘れないように努めたいところです。

そんなわけで、ボロボロになりながらも、おそらくこれからも何度も読み返していくであろう名著『知的生活の方法』を再読してみようと思います。それはきっと、崖っぷちに立たされた私の将来に対しても大きなヒントを与えてくれるに違いありませんから…。

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どういった生き方が自分にとって理想なのかを決定するのは難しいものですね。この年齢になっても未だに明確な「キャリア形成」が築けていないのを日々感じています。

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社会性とブログ形式との関係

他人のブログを読んでいて気になるのは、多くの方がそれを日記形式で書いているという点です。その日学校で職場であるいはバイト先で何々があった、また世の中でこういう事件が起こった…、のように。元々ブログというものは「ウェブ上で公開された日記」という捉え方をされているわけで、そういった形式が多数派を占めるのも無理はないのかもしれません。

それに対して私は日記形式ではなくどちらかと言えばコラム形式で書いています。もちろん、その日起こった出来事を書くこともたまにはありますが、大体の記事は、それまでストックしていたネタを消化したり、その日に思いついた内容を発展させたりという形で構成するようにしています。こういう形式が主なブログはどちらかと言えば少数派に属すると言えるのでしょう。(ちなみに私のブログが日記形式でないという事実は他の方に指摘されて始めて気付きました)

私があえてこうした形式でブログを書き続けてきたのは何も強い信念があってのことではありません。自然とこうした形式に落ち着いていたのです。自分に一番合った形式であったからこそ、飽きっぽい性質の自分がここまで長く持続してこれたのです。

それでは、なぜ日記形式ではなくコラム形式になってしまったのか。少し考えてみれば、その答えはあまりにも明白だと言えます―日記形式ではブログを継続させるのがほぼ不可能であるから、というのがその答えです。つまり、非リア充であるために、何か特別の予定のある日よりもない日の方が圧倒的に多く、日記のネタになるような経験が圧倒的に欠如していて、日記形式では間違いなくネタが枯渇してしまうわけです。そうである以上、長期間ブログを続けていきたいと思うならばどうしても日記以外の内容を中心にしていく必要があります。そのような「非リア充の憂鬱」から生み出された苦肉の策が今のようなスタイルに繋がっていったのです。

そうした点を考えてみても、自分の身の周りの日常を頻繁にブログのネタにできるか否かは、社会性・社交性の有無の一種のバロメーターであると言ってよいかもしれません。

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リア充大学生は夏休みが始まる前に既にスケジュール帳が真っ黒だと聞きますが、どうやったらそんなに予定が入るのか…。

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