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早寝早起きは社会人の基本

以前もちょこっと書いたように、私はもう彼是一年以上土日は昼から夜までとあるバイトを続けてきました。そのおかげで、極端な昼夜逆転生活から脱せられて、それだけでもバイトを続けてきた意味があったというものです。バイトを始める前は、酷い昼夜逆転生活を送っていて、たとえ平日午前中に起きていたとしても、土日で夕方以降までずっと寝続けてしまいリズムが崩れ、平日大学に行けなくなるという悪循環に悩まされていました。

バイトを始めてからは、どれだけ遅くても午前中に目を覚まさなければならないため、土日だらだらと昼過ぎまで寝続ける悪習から脱し、何とか多少生活習慣が「改善」されてきました。

しかし、そうは言っても、あくまで前と比較しての話であって、世間一般の基準で見ればまだまだ十分遅寝遅起きの部類に属するでしょう。夜寝るのはたいてい3時以降ですし、朝起きるのもかろうじて9時前に起きるのがやっとというところですから。

私の中では、朝9時前に起きるのはかなりの早起きなわけですが、私と同年代の社会人の方々を考えれば、こんな時間まで寝ているのは風来坊以外の何者でもなく、強いお叱りを受けてしまうに違いありません。

そんなわけで、もっと早い時間に起きるよう努めていかなければならないわけで、そのためには、当然ながらもっと早い時間に寝る習慣を身につけなければなりません。そして、仮に7時に起きるとすれば、毎日0時には布団に入っているのが理想なわけです。

しかし、そう考えてくると、朝も夜と同様時間的余裕のある今はともかく、社会人になると、自由な時間が極めて限られてくるという現実を思い知らされます。平日19時に仕事を終え帰宅するとして、食事や入浴などを済ませると自由な時間はほぼ皆無。その際はネットの時間を最大限削るなりして勉強時間を確保していかなければならないでしょう。社会人になったときに備えて、時間配分に今から徐々に気を使っていきたいところです。

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死刑判決と加賀乙彦『死刑囚の記録』

砒素混入事件の最高裁での死刑判決が確定しました。この事件に関しては、状況証拠だけで死刑にされてしまっただの何だのとマスコミで色々と議論が繰り広げられていて、そこに私が何か事件に対して新しい意見を付け加えるつもりは毛頭ありません。

昨日初めて、被告の判決が今日に控えていると知ったわけですが、偶然と言うべきか、ちょうど昨日加賀乙彦さんの『死刑囚の記録』(中公新書)を読み終えたところでした。加賀氏は、東大医学部出身の精神科医で、一時期東京拘置所で医師として勤めていた経験があり、その中で出会った多くの重罪被告や死刑囚との付き合いを基にして書かれたのがこの本です。世に死刑制度の是非を論じた本は数あれど、肝心の死刑囚の心理や内面について専門家の立場から書かれた本は数少なく、その意味でこの本は「興味深い」ものでありました。

死刑囚の置かれた心理状態を、我々傍観者が理解することはできるでしょうか。おそらくそれは難しいでしょう。特に若いうちは、誰もが皆いつかは死ぬとは分かっていても、まだそれは遥か遠い日の出来事であると思っていて、死の実感を抱くのには困難を感じるのが普通です。死刑囚になれば否応にそんな日常は吹き飛ばされてしまいます。刑が確定した瞬間から、常に死と隣り合わせ、その日一日生き延びられるかどうか、恐怖との闘いが待ち受けています。その極限までの緊張感に満ちた日々はどのようなものか経験のない者に分かるはずがありません。

死刑囚にも様々なタイプの人間がいることがこの本を読むと分かります。凶暴で手がつけられないいかにも極悪人というタイプから、陽気で人柄のよさそうな一見人を殺すようには見えないタイプ(こういう人間は、何というか他者への共感が全く欠けていて、大量殺人ですら何の罪悪感もなく実行できるからこそ陽気でいられるという不気味なところがあったりもしますが)。そのように様々な人間のタイプはあれど、彼ら死刑囚の多くに共通して見られる特徴は、良くも悪くも「精神の活発性」というものです。詩作や創作に励んだり、とにかく喋り散らしてみたりで、不自然なほどに明るく積極的に日々を生きているというのです。いつ自分の人生が終わるか分からないのだから、毎日を必死に生きなければならない、そうした「濃縮された時間」が彼らを真剣な生へと向かわせているに違いありません。

こうした視点は、本来は死刑囚だけではなく万人が持っているべき感覚だと私には思えてなりません。よく言われるように、死があるからこそ毎日を一生懸命生きようと思える。死を忘れてしまえば、我々の日々の暮らしは緊張感のないものにならざるをえません。「毎朝、今日が最後の一日だと思ってその日を生きよ」という言葉を残したのは誰だったでしょうか。この言葉は数年前に初めて接したとき以来ずっと私の脳裏にこびりついていました。しかし、実感を持つことはなかなかできません。

若いうちは特に、自分の死など遥か遠い日の出来事で今日明日には関係ない、などと思い込んでしまいがちですが、それがどれほど間違った見方であるかは少し考えてみればあまりにも明らかです。事故、天災、犯罪、病気…、いくらでも身の回りには我々の命を一瞬にして奪ってしまうリスクが転がっています。今日一日を生き延びられることは、当たり前ではなくとても幸福なのだと思い感謝しなければならないのかもしれません。

いつ死神が襲ってくるか分からない、そして誰であろうと必ず襲われる点を考えれば、我々は皆例外なく、死刑を宣告された囚人に等しいのではないでしょうか。フランスの賢人は次のような言葉を残しています。「死を思え」と。その兆候が表れるまでそれを実感するのは難しい。しかし、できる限り想像力を働かせ、その事実に向き合う作業を通して我々は自らの生をより意味のあるものにしていけるはずです。原始的な生存本能こそはあらゆる活力の源泉である。そんな単純だけれど忘れられがちな事実を死刑囚に関する記述から教えられたような気がしました。

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伝説的ノートブック

書店に行くと本とは別に手帳やノートなどが置いてあることがよくあります。手帳やノートと言えば、○○考案手帳だとか東大生ノートだとか趣向を凝らした商品が多数用意されていて、それらを上手く使えば作業能率をぐんと高められるのかもしれません。東大ノートは著書の方がベストセラーになり広く知られるようになったのもあり、ノートの方も爆発的に売れているのでしょうが、冷静になって考えれば、普通のノートより線が数本多かったりするだけで、それでなければいけない強い理由でもあるのだろうかと首を傾げてしまいたくもなります。ですが、世の中のヒット商品の大半は、そうした些細なところに発揮されたアイディアによって生まれるのが通常の姿であるのでしょう。

ところで、そうした書店に置いてあるノート類を見ていたときにふと気になるノートを発見したのです。それは、「モレスキン」という海外からの輸入ブランドのノートであるそうで、やや高級な値段設定となっています。ピカソやヘミングウェイも愛用していたという歴史のあるノートブックなのだそうです。この世界では相当有名なノートなのですから、知っていた方も多いだろうと思います。

ノートの効用については私も以前ブログ上で指摘した覚えがあります。何か考えが浮かんだときに、それをメモしておく習慣をつけることは日々の生活を送る上で絶大な威力を発揮するものです。たとえば、何かいいアイディアを思い出したけれども、次の日にはそれが何であったか思い出せないという経験は誰にでも一度はあるものでしょう。そうしたわけで、私もメモ帳を持参するようにしているわけですが、今使っているノートはコクヨの文庫本サイズの小さいやつで値段にして100円で買えてしまうやつなのです。

書店でこのモレスキンを目にしたとき私は、ピカソが使っていたという伝説のノートという宣伝文句にも惹かれて、買おうかどうか迷ってしまったわけです。値段はコクヨ100円ノートより小さいやつですら2000円という高級仕様。これを持てば、何か自分もピカソやヘミングウェイといった偉人たちと同じ創造的な活動を起こせるはずであり、ここでこれを買わなければその力を得る機会を失ってしまうのではないかという非合理な妄想にとらわれ、購入の一歩手前までいったわけですが、やはり理性的に考えてみれば、今現在100円のコクヨノートで十分に機能が足りているという事実に気付き購入を見送ったのでした。

シンプルイズベストというのは私の好きな言葉の一つでもあります。ノートも純粋に機能面だけで言えばコクヨの定番ノートほど優れている商品は稀かもしれません。もちろん何にせよ高級な商品にはそれなりのこだわりや特質、ブランド価値があるもので、そうした点も商品選びには欠かせない要素ではあります。しかし、機能性の高さと値段が必ずしも相関関係にはないという事実に私は感謝したくなります。商品の種類によっては、最も機能性の高い商品が最も安い価格帯で売られていたりもするもので侮れません。値段だけでなく、様々な側面から商品の価値を判断していきたいところですね。

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でも、やっぱり背伸びして一冊欲しくなるモレスキンw記録するのに相応しい用途を見つけたら一冊買ってみたいところ。

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新入生は誰でも最初は「ぼっち」

いよいよ入学式も終わり新入生がそれぞれの期待を胸にして大学生活を始める時期がやってきました。

その期待は実現することもあれば、深い失望に変わることもあり、大生板の住人の大半は後者であっただろうと推測して間違いはないでしょう。

言ってみれば何らかの意味でリアルの大学生活からあぶれてしまった方々が集う楽園が大生板でもあり、そこは非リアの擬似キャンパスライフが展開しているとすら言えるかもしれません。

そんな大生板なわけですが、この時期は毎年板の空気が一時的に変化します。

その変化をもたらすのは言うまでもなく新入生であって、彼らの新生活に対する不安がそれを引き起こすのです。

つまり、彼らの大部分は本来はリア充気質であるにも関わらず、全くの新しい環境に飛び込んでしまったがために最初の数日から数ヶ月は上手く大学になじめずに人間関係に対する悩みを抱えてしまう。そこで、大学デビューに失敗したと思い込んだ新入生が板に大挙し「4年間のぼっち生活が確定した」だの「友達できない、オワタ」だのとぼっちを自称し始めるわけです。

こうした現象は毎年恒例であって最早驚くにはあたりません。

しばしば言われるように歴史は繰り返すのであって、私は今年も必ず今の時期にそうした空気に包まれるであろうことは予想していたし実際その通りになりました。

そして、「歴史」の教えるところでは、今後の経過も分かりきっています。

自称ぼっちの新入生の9割方が夏休み頃までに一人また一人とリアルで自分が属するコミュニティーを見つけ、板から無事「卒業」していき、後にはほんの一握りの真性非リアだけが残されるのです。

しばらくは新入生による「ぼっち」に関するスレや書き込みが板に溢れかえるに違いありません。

そしてそれらのうちのいくつかは、もしかしたら真性非リアの神経を逆撫でするものであるかもしれません。

ですが、それはあくまで恒例行事であり、台風のように一時的な現象にしか過ぎないのですから寛容な態度を保持していたいものです。

私は、新入生がリアルで上手くやれるのを応援したい気持ちで一杯です。

大生板は、大学に居場所を見つけられなかった大学生の最後の砦でもあるわけですから…。

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