熱狂に包まれた秋葉原~兄貴トークショー~(後編)

兄貴を乗せたタクシーがビルの中へ入っていくのを見送った後、再び駅前広場に戻り様子を見てみると、先ほど見たときよりもさらに列が延び、その周りにも、橋の下からUDXビルの大型スクリーンを見るために待機する人たちの姿がちらほらと見られるようになってきました。私は橋の上にのぼり、そこの通路からスクリーンで見ようと思い、早めに場所を確保していました。すると、イベントが始まってすぐの頃は人も少なく問題なく見られたのですが、兄貴トークショーの時間が近づくにつれて人が増えていき、入場待ちの列とは別にもう一つ橋の上に列が作られていく状況でした。そのため、(おそらくは警察の指導が入ったのでしょうが)運営スタッフの方々が参加者に、橋の上で立ち止まらないでくれと必死に注意してまわるものの、どんどん増えていくファンをどのようにもできず右往左往しておりました。

ここで私は予定を変更して、スクリーンではなくUDXビル内の会場前モニターで見ようと考え直し移動したのでした(この選択は結果的に見れば正解でした。兄貴を目の前で見られたし、あまりにも混乱が増したため、大型スクリーンは警察の介入で途中で打ち切られてしまったようですから)。

会場前にも多くの人だかりができていて、今か今かと兄貴の登場を待ち望んでいました。そしてついに兄貴が登場する時間となり、司会がその旨を告げると、会場からは期待に満ちた大きな歓声が沸き起こりました。会場入り口にいた私も、いよいよその時が来たと期待に胸を膨らませ、少しでも生兄貴の姿を見られたらいいなとわくわくしながら待っていました(会場外からは壁に遮られ会場内の様子は見られなくなっていたのです)。するとその時意外な光景が目に飛び込んできたのです。いつのまにか我々の目の前に、数人の背広姿の大人(そのうちの1人は通訳の外国人だと後で分かりました)がいて、真ん中の1人をジャケットでその姿を隠すようにして立っていたのです。この光景に気付いた周囲のファンたちが「え、まさか!?」と思ったときでした、ジャケットがパッと取り払われるとそこには案の定兄貴の姿が!その瞬間大きなどよめきの声があがり、雪崩を打つように兄貴のもとに殺到していくファンの姿が見られました。もみくちゃにされながら兄貴が会場内に入っていくと、やはりそちらでも大地を揺るがすようなどよめきで迎えられ、会場内は熱気に満ち満ちていました。

いよいよ待ちに待った本番です(会場内があまりにも盛り上がっていたため、私はその場ではモニターの声をほとんど聞き取ることができませんでした。なので以下の内容は、後にニコニコにあげられた動画も参考にしながら書いています)。兄貴がまず最初にファンに軽く挨拶を済ませた後、早速パフォーマンスを見せてくれました。会場を「兄貴コール」で沸き立たせた後、着ていたジャケットを脱ぎ、それを観客席に投げ込んでくれたのです。当然観客は大喜び。聞くところによるとそのジャケを巡ってちょっとした争奪戦も起こったのだとか。

その後も、ニコニコで話題になった「空耳」のいくつかを披露してくれたり、会場のガラス窓外にいたファンのためにもパフォーマンスをしてくれたりとサービス精神旺盛なショーで場を盛り上げてくれました。動画を見ても分かるように、途中何度も進行がgdgdになりそうなところがあったのですが、そのたびに兄貴が機転を利かせて場の雰囲気をよい方向に持っていくその巧みさはただただ脱帽の一言に尽きます。

それから、兄貴フィギュア発売決定の発表がなされ、兄貴がフィギュアと同じ格好をしてみせてまたしても場を沸かせたり、残った時間で会場から選ばれたファンが兄貴からちょっとした「プレゼント」を貰い感動の涙を流したりしているうちにあっという間に30分が過ぎ終わりの時間。兄貴は自分の誕生日である7月14日にまた日本に戻ってくることをファンに約束し、大歓声と割れんばかりの拍手に見送られながら会場を後にしたのでした。

今回の来日で兄貴の人気が不動のものになった感があります。それも兄貴が肉体だけでなく人間面でも精神面でも歪みねえ人間であると分かったからでしょう。次回の来日が今から待ち遠しくてなりません。

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熱狂に包まれた秋葉原~兄貴トークショー~(前編)

昨日は先日紹介しました兄貴ことビリー・ヘリントン氏のトークショーを見るために秋葉UDXに行ってまいりました。ビリー氏といえば、今やニコニコの顔と言っても言いすぎではなく、加えて海外在住とあって、もしもイベントを開けば、ニコニコ有名人の中で最も多く観客を集められる人物であるに違いありません。それなのに、今回のイベントは、あくまでも一日がかりのフィギアやら声優やらのイベントであり、兄貴はフィギア発売決定に合わせてその中の一ゲストとして呼ばれたという扱いのためもあり、トークショーだけの別会場が用意されていたわけでもなく定員数は他のイベント同じくたったの300名。最初この数字が運営側から伝えられたとき私は思わず自分の目を疑ってしまいました。

「たった300!?何かの間違いじゃないのか。どんなに少なく見積もってもその倍は来るに決まっているのに。」

この私の感想は半分は正しくそして半分は間違っていました。正しいのは、予想通り、300という枠は軽く突破してしまったこと。そして間違っていたのは、来場者数の予想。倍などというレベルではありませんでした。何と整理券の大半が徹夜組によって占められ、始発組ですら、近隣に住んでいたごく一部の幸運者しかそれを入手できなかったのです!兄貴目当ての来場者がおそらく定員の10倍は超えていたのではないでしょうか。そういう意味で、私は来場者数を完全に見誤っていました。

ちなみに私も始発で行く計画を立てていたわけですが、だらしねえことに当日寝坊してしまい、7時ごろ目が覚めたときに急いでスレを覗いてみると、そこでは秋葉原の騒然とした様子が現地の参加者によって報告されていました。何と、その時間すでにUDX前の橋の上は行列で埋め尽くされ、階段下にまで列が延びている、ざっと見たところ、1000人は超えているのではないかという内容でした。

整理券入手に絶望しながらも、始発でもダメだったんだから諦めもつくと自分を励まし、会場内モニターやビルのスクリーンもあるのだし、せめて会場の熱気だけでも感じようと、私は秋葉に向かいました。兄貴出演は昼前からだったのでモニターで見る分には、時間的な余裕は十分ありました。

10時過ぎに秋葉に到着し、改札を一歩外に出るとそこには驚くべき光景が広がっていました。イベント待ちの行列で人が溢れかえっていたのです。階段の下正面はもちろん、横にまで行列が延び、しかもさらにその列が延び続けていました。

もう並ぶのは諦め、会場の方を見に行ってみると、行列が橋の上からずっとビルに向かって延び、ビルのところにも大きな行列が作られていました。その時点で3000人以上は並んでいたと思います。

ここでまたビルスクリーンのある辺りの位置に戻り休憩しているとちょっとしたハプニングが。橋の上から道路を見ていた参加者の数人が何かに気づいたらしく場が騒がしくなってきました。彼らの方を見ると、「兄貴だ!」「兄貴じゃないのか!」と興奮しながら声を荒らげている。どうやら兄貴を乗せたタクシーが到着した様子。そして、その推測が正しいらしいと分かると、周囲に大きなどよめきが起こり、近くにいた方々は、ビル内へ入っていくタクシーの方に悲鳴をあげながら駆け寄っていっていました。周りで見ていた事情を知らない一般人は、一体どんな有名なアイドルがやって来たんだどいぶかしく思っていたに違いありません。この序章は、兄貴がニコニコ民にとっては紛れもないアイドルであること、そして、本編のトークショーがファンの熱狂の渦に包まれるであろう予想図を示しているように思えたのでした。(後編に続く)

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最近更新がだらしねえ状態ですみません。

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森羅万象に含まれる真理について

20世紀を代表する我が国の誇るべき大経営者松下幸之助翁は「万物はこれ師である」という言葉を残した。また大航海時代のクロニスタの一人として南米大陸の布教に努めたアコスタ神父はこう言っている。賢者は、どのような小さなつまらないと思われている事柄からも、自ずから叡智を引き出す、と。私はこれらの言葉を、ファーブルの昆虫記を読んでいて思い出した。

昆虫などというものは「普通の」人間にとっては非常につまらない存在である。道端を歩いていて何も知らずに踏み潰してしまうか、「害虫」として扱われ除去されてしまうのが関の山だ。そんなものを観察し研究したところで何も得られるものはないとほとんどの人は考えていただろうし、だからこそファーブルの時代まで昆虫が真面目に研究されることはなかったのだろう。

しかし、ファーブルは、その誰も目にもとめないような「虫けら」の観察に一生を捧げ、結果数え切れないほどの真理を見出し、文化の発展に貢献した。この事実からも明らかなように、世の中でつまらないと思われているものの中にも多くの真理が隠されている。そしてそれらの真理は、人間か神から授かった能力―観察力や分析力といったものつまりは理性によって一つ一つ明らかにされていく。覆われているものでもやがては現されるようになるものなのだ。

たった一匹のアリやたった一個の石といった一見つまらないものの中にも多くの真理が含まれている。そうであるならば、アリや石よりもはるかに複雑な生物や物質にだって多くの真理が含まれているはずだ。殊に理性を持った生物である我々人類であればなおさらである。どんな人間だってアリよりも遥かに複雑に含まれているのであるから。

大切なのは、我々の周りにあるそうした「真理」を掴もうと努力する態度なのだと思う。それがなければ、どれだけ優れた人物や事柄に触れようと何も得るものはないだろうし、逆に周りのものすべてに学ぶ態度があれば、ファーブルのようにどんな小さなものからだって真理を得ることができる。自分に関係するすべての事象から学び取る姿勢を身につけていきたいものである。

ファーブルの伝記についてのまとめは目下ノートにまとめ中です。途中別の記事も織り交ぜながら少しずつ執筆を進めていく予定です。

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習慣はおろそかにできない

一昨日昨日はココログの方がメンテナンスを実施していたようで日記の更新ができませんでした。

ここ数ヵ月は毎日のように日記を更新していて、それが日課となっていたところがあり、更新できないと知ったときは少なからず動揺しました。

「習慣」の力は強いものです。

こうして簡単な文章を少し書くだけでも、毎日更新するのはなかなか骨の折れるところがあります。

最初の頃は、ブログのネタが見つからず、画面の前で頭を悩ましていたものでしたが、毎日書くのを習慣にしていたら徐々にネタが思いつくようになってきましたし、文章も、ブログ開設時に比べれば、割とスラスラと書けるようになってきました。

どんな作業でも、練習によって上達させていくことができるはずだと私は信じています。

そして、そのためには「たゆまぬ努力」つまりは継続が不可欠です。

しかし、人間は放っておくと、怠惰に甘んじてしまうもの。

怠惰な習慣は身につきやすく、そうでない習慣は身につけるまでに気力を要します。

それでも、どちらの習慣も一度「習慣」として確立されると、意識しなくても自然に続けられるものです。

私が、こうして毎日ブログを更新しないでは落ち着かなくなってきたように…。

ブログだけでなく、後者の習慣を多く身につけていきたいですね。

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自分と上手く付き合うコツ

2chでも「ぼっちチャット」でもたまに言われることがあります。

「君は生活が充実していそうに見えるが本当にぼっちなのか?」と。

ブログや2chでの書き込みを見ると、別にネガティブなところもなく、人生を楽しんでいるように見えるからでしょう。

そして、それは、生活が充実しているという点においてはあたっていると思います。

私が大学ではぼっちであるにも関わらず、それほど思い悩んでいない理由はいくつかあります。

まず最初に、私は大学ではぼっちでも、高校の頃の知り合いや友達が数人いて、彼らとたまに会っているために、精神的に患わずにすんでいるという部分があります。この夏休みも、数回は彼らと再会しました。

次に、バイトをしていて、最低限の対人関係があるのも精神衛生上よいのかもしれません。

しかし、それ以上に大きいのはおそらく、自分のモットーにあるのだと思います。その私の人生のモットーとは、どのような苦境に置かれようとも何かしら楽しいことを見つけよう、というものです。

私だって、初めから今のぼっち生活を肯定できたわけではありませんでした。ある時期は、あまりにも大学生活がつまらないために不登校に近い状態になってしまったりもしていました。

そんな私が、今のように非常に良好な精神状態を保つことができているのは、その後、本を読むなり、高校時代の友達の話を聞いたりして、考え方を改めることができたからに外なりません。

ポジティブに考えられるようになってからは、次のように考えてみることにしました。

「確かにぼっちはつらいかもしれない。昼食を毎日一人で食べるのもなかなか辛いものだ。

しかし、ぼっちであるということは、他のどの学生よりも自由な時間を与えられているということだ。サークル活動もなければ、表面的な煩わしい人間関係からも自由だ。これは考えようによっては非常に恵まれている状態だとも言えるのではないか。せっかくこれだけ時間が余ってるんだ。この時間で思いっきり自分の好きなことをしてやろう。」

こう考えるようになってからは人生が好転しました。

自分一人でも楽しめることはいくらでもあるのです。授業がない時間は図書館で思いっきり読書ができる。授業終了後は、本を読んでもいいし、街に遊びに行って、古本屋に行ったり外食したりしてもいい。ぼっちのおかげで交際費はほぼゼロなのだから、お金にはある程度余裕がある。

リアルだけではない。ネット上だっていくらでも楽しいことは見つかる。

2chでコテデビューし、ブログを始め、ミクシィに誘ってもらって・・・というように次々と新しいことに挑戦し続けてきました。某コンテストの候補者のブログに「読書くん」の名前でコメントを残したりもしましたw

そんなこんなで、ぼっちはぼっちなりに、自分にとって楽しいと思えることを次々に追求していった結果、生きていることがそれほど苦ではなくなり、人生に対して失いかけていた希望ですら見出せるようになってきました。

どんな状況下に置かれても自分を楽しませるような行動・思考法をすることが人生を上手く生きるコツであると私は信じています。

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行動しないで後悔するよりも

行動して後悔した方がよほどよい、とはしばしば言われる言葉です。

確かに、何事かを達成したり手に入れたりするためには、自分から積極的に行動する以外に選択肢はないように思います。

「果報は寝てまて」などという諺もありますが、その本意は「やるだけやったら後は運命に任せるしかない」ぐらいの意味で「人事を尽くして天命を待つ」と同じ意味として私は理解しています。

よほどの重大事でなければ、実際に行動して、仮に失敗してしまったところでたいした実害はありません。

日常生活の中での決断で言えば、ちょっと恥をかいたり、落ち込んだりといった事態になる程度ではないでしょうか。

その程度の傷を負うことですら怖がって人との接点を避け、挑戦から遠ざかってしまっていては決して幸福な人生を送ることはできないでしょう。

少しの恥もかかず、傷つきもしないぬるま湯につかったような生活は、確かに一時的には快いかもしれませんが、何の成長も生み出さないし、長い目でみれば、その状態こそが「恥」であるのかもしれません。

人は何かを得ようと思えば何かを失ってしまうのと同じように、成功を得たいと思うのであれば失敗も甘んじて受け入れなければならないのでしょう。

と言うよりも、失敗こそが成功を生み出すために必要な要素です。

誰だって、意識的にせよ無意識的にせよ、失敗を教訓として成功を勝ち取ろうと努力しているものです。

私は、そんな簡単なことに気付くのに、あまりにも時間がかかりすぎてしまいました。

敗退こそ、望むべき結果なのです。

私は、そのことを常に忘れず、2chだけでなく現実社会でも行動し続けていきたいと思います。

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死か栄光か

聖書にはこう書いてある。

「心に怒りを抱く人間の友になるな」

と。

人間の心は敏感である。

愛には愛を、怒りには怒りをもって反応してしまうものだ。

そのため、怒りを抱く救われない人間とあまりにも深く付き合うことは危険だと考えなければならない。

いつしか、相手の怒りによって自らの心が汚染されてしまうだろう。

そうならないためにも、我々は付き合う相手を誤ってはならない。

もしも、今付き合っている相手がその手の人間であるならば、明日にでも一切の付き合いを断つべきである。

それが無理なら、せめて、その怒り以上に強い愛を抱く人間を探し友にしよう。

破滅の道を歩むよう運命づけられた哀れな悪魔は自らが堕落するだけではあきたらず、周りの人間も破滅に巻き込んでやろうと画策している。

彼らは人を罵り、傷つけ、喚き散らすがそれは彼らの苦しみをいよいよ大きくするだけである。

彼らには生そのものが地獄である。

彼らは不信の心で他人と交わる。

それは彼らに何の慰めももたらさないだろう。

我々は心に愛なき人間とは付き合いを避けなければならない。

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物質偏重主義は国民・国家を衰退させる

今の日本からは「精神」という言葉は最早失われてしまった感があります。

それだけではなく他にも「道徳」「教養」「魂」など精神主義的な匂いのする用語は悉く日本社会から姿を消していってしまっています。

それはおそらく、社会から、戦前の精神主義的な教育を受けた世代が引退している事実と大きな関係があるのでしょう。

戦前、日本国はあまりにも「精神の力」を過信しすぎていました。

それが行過ぎた結果、第二次大戦時には「物量が無ければ大和魂で補え」式の悪しき精神偏重主義が蔓延り、多くの無益な被害(戦闘行為による戦死ではなくて、食料不足による餓死など)を生み出しました。このような悪い意味での精神主義は反省すべきであったと思います。

しかし、戦後日本は、戦前にあまりにも精神を重んじた反動からか、精神的な要素を根こそぎ否定して、ひたすら物質面での価値のみを追い求めてきました。

極端から極端への変動です。

それでも、1950~80年代ぐらいまでは、まだ戦前の教育を受けた世代が社会の中枢にいたため、かろうじて社会に精神主義的雰囲気が残っていたのを、当時の書物などから読み取ることができます。

それが、90年代頃から、それらの世代の引退からか、明らかに精神主義的な要素が衰退してしまっていることが、これまた書物などから読み取ることができます。

私は、日本国がアジア諸国に先駆けて近代化に成功し、大国へと成長できた原動力も、戦後奇跡に次ぐ奇跡の経済躍進を遂げ、経済大国へと成長できた原動力も、ともに日本人の精神力、つまりは「大和魂」にあったと考えています。

いつの時代にも、ある国の繁栄の裏には、それを支える偉大なる思想が存在していた点を忘れてはなりません。

精神を欠いた物質主義は、国家を繁栄にではなく衰退へと導く麻薬でしかありません。

我々は今こそ、人間が持つ偉大な力―精神力の持つ価値を再確認し、衰退する日本国を救う覚悟をかためるべきときではないでしょうか?

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類は友を呼ぶ

18 名前: 読書くん ◆syB2oUkKNs 投稿日: 2006/08/30(水) 01:09:26
>>16
好悪の感情は誰にでもあるものです。
なので、誰でも、嫌いな人間もいれば、好きな人間もいるものです。
しかし、大きく分けて人間には二種類のタイプがいると思います。
人類全体を愛している人間と、人類全体を憎んでいる人間という。
前者のタイプは前者と、後者のタイプは後者と結びつくのが人間社会の本質であるような気がするのです。
前者の関係は、お互いに助け合い、励ましあい、常に相手の成功・幸福を願いながら付き合いを続けていきます。
しかしながら、後者の関係は、お互いに嫉妬し合い、足を引っ張り合い、常に相手の堕落・不幸を願いながら付き合いを続けていきます。
真に幸福になりたいと願うのであれば、前者のような関係を築けるような人間になるべく努力をしなければならないと思うわけです。
 
 
少々抽象的に過ぎたかもしれません。
具体的に言うならば、「類は友を呼ぶ」という格言に、上記の内容は集約されると思います。
それが真理だと信じるがゆえに、私は、己の人格の向上を常に忘れずに日々を送り、真の友情を築き上げていきたいと考えています。

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人生の意味

30 名前: 読書くん ◆syB2oUkKNs 投稿日: 2006/08/29(火) 23:34:52
この手のスレはこれまでも何度か見た気がして、その度に言ってきましたが、フランクルが言うように、我々の方から人生に対して生きる意味を問うのは間違っているのかもしれません。
そうではなく、人生の方から次々と我々に向かって投げかけてくる課題に1つ1つ誠実に応えていくことにより、やっと何かのきっかけのようなものがつかめてくるのではないでしょうか。
積極的に生きる意味を定義するのは難しいし、あまり思い悩みすぎると下手をすれば、答えを出せずに絶望し、自殺に走ってしまうようなことにもなりかねません。
我々は、行動する中で生きる意味を感じ取っていくべきだと私は考えます。
 
 
昔読んだフランクルの本の中に書いてあって、とても共感を覚えた思想です。
確かに、人生の意味などはどれだけそれについて考えたところで答えなど出しようがないものであるのかもしれません。
それよりは、人生の中で1つでも有益な活動を行い、その中から得られる何か、を得ていくことが、人生の意味を知るためには一番有益なのだと私は信じています。

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